室賀城(笹洞城)

室賀城(笹洞城)([岡城  周辺城郭])

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室賀城(笹洞城)の口コミ情報

2026年04月24日 内記かずりヾ(・ε・。)


室賀城(笹洞城)は岡城の北西約4.2km、室賀川西岸(右岸)、標高821mの山稜山頂から東方へ伸びる尾根下段上、標高約692.6m地点の平場を中心に立地する要害です。西麓の室賀川からの比高は140m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある「室賀水上神社」からとなり、1台なら車を捨てられるスペースもある。

築城年代は不明、築城者は室賀氏です。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある室賀城も併せて参照して下さい。以下はその続きである。

武田氏の滅亡後、信長の横死後、謂わゆる天正壬午の乱の際の当主が室賀正武である。同名は、天正十年(西暦1582年)二月から始まった「甲州征伐」の際には、実弟の屋代秀正と共に、アプリの登録城、丸子城に在番していたそうだが城を捨てて逃亡している。織田氏時代には、川中島四郡を差配する森長可に出仕、同名に従い同年中における芋川親正の一揆を討伐した。

信長の横死後には徳川氏に接近、「加沢記」によれば、天正十一年(西暦1583年)には所領安堵を受けたらしい。当然ながら小県郡経略を押し進める真田氏とは対立、真田勢は室賀城に攻め寄せ一旦は和睦に及んだが、天正十二年(西暦1584年)七月、上田城城内において正武は誘殺されてしまう。大河ドラマ、真田丸では、小県郡の国人衆の大立者の一人のように扱われていたが、意外にもその最期は呆気ない。又、前記では、真田昌幸の謀殺を徳川氏から指図された事をその理由としているが、これを裏付けるような他の史料は存在しない。

小県郡の良城の一つだ。主郭からの東方尾根は大手筋、主郭から一段下がった所に縄張図における通称2郭(切岸が素敵…)を設けており、その東側谷側前面には堀切を穿っている。主郭からの西方尾根は後背地に通じ、主郭西側山側背後には凄まじい落差の大堀切と連続堀切で尾根筋を断ち切っている。道が無ければ大堀切の堀族へ下りるのは困難だろう。又、主郭からの南方尾根は居館地へと通じており、推測するに往時の登路であろうか。高低差のある段郭が素晴らしく手が抜かれる事が全く無い。全体的に見ればコンパクトながら非常に丁寧な造作、主郭の切岸に付く派手目な土留めの石積みや石塁、プリミティブな枡形虎口も見所の一つだ。

該地の小県郡室賀郷は、鎌倉時代から戦国時代まで、時の支配層によって特に重要視されてきた郷村である。千曲川の左岸地域、同郷内を南北に通る室賀峠道は、更級郡、埴科郡へと抜ける往時の主要道であり、古代には東山道へと合流する間道であったろう。同川の右岸地域を進む、近世の北国街道、現在の国道18号の存在によって主要道としての役割は格段に低下したが、戦国時代には村上勢は勿論の事、川中島へ出張する等して武田勢が頻繁に利用した。アプリの登録城、岡城はこれが為に築かれた宿城だと言ってよい。

室賀郷を本貫地とする室賀氏はこの点において武田氏から多分に警戒されている。生島足島神社文書中、「室賀経秀(当時の当主、山城守信俊の実弟である。)等連署起請文」には、「一 此以前奉捧数通之誓言、弥不可致相違之事」とあり、これ以前に捧げ奉った数通の誓詞について、これからもますます相背くようなことは決して致しません…と言っている。同起請文は、当主とは別に室賀氏の一族、被官等がその名を連ねているが、武田信玄に対して誓詞を差し出す事が度々であった事を窺わせている。

※信濃の山城としては登城は楽な方だ。はぁはぁする前に城域に入る。ちなみに同じ岡城のリア攻めマップにある室賀城(室賀氏居館・原畑城)とは一体の関係にある。

※小県郡室賀郷〜小泉庄を構成する一郷であり、鎌倉幕府御家人、泉氏の所領であったが、建暦三年(西暦1213年)二月十五日に発覚した「泉親衡の乱」の後に北条泰時が没収し、執権家と近しい海野氏が知行する所となった。少なくとも、元徳元年(西暦1329年)三月まで、海野信濃権守の知行地であったが、建武二年(西暦1335年)七月に発生した「中先代の乱」の際に北条時行に与して所領は失われたようだ。又、南北朝時代には足利尊氏の先陣を務めた事で知られる安保光泰が地頭職に補任され、建暦三年(西暦1340年)八月廿二日には、その子、泰規に譲っている。

※室賀峠〜同じ岡城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。周辺地域は、古くは「風越」と呼ばれていたとも伝わり、長元五年(西暦1032年)、朝臣、藤原家経が信濃守に叙任され下向する途上、この室賀峠において、「風越の峰の上にて 見るときは 雲はふもとのものにぞありける」の歌を詠んだと云われている。

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