浦野館(内堀)
浦野館(内堀)([岡城 周辺城郭])
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浦野館(内堀)の口コミ情報
2026年02月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
浦野館(内堀)は岡城の西南西約0.9km、阿鳥川南岸(右岸)、浦野川北岸(左岸)、標高約494mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、居館地は現在、上田市立浦里小学校に変貌している。従って休みの日以外の訪問は控えた方が無難だ。車は土日なら小学校に乗り入れて捨てる事が出来る。躊躇するなら同じく位置登録がある「浦里公民館」の駐車場に捨てるのがよい。
該地の小県郡浦野は、律令制下における東山道の駅家が置かれた地である。即ち、「延喜式」、兵部省の項、「諸国伝馬」の条に、「浦野駅十五疋」とあるのがそれだ。開発は古くから進んでいたと考えられ、当該地域は同じく「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ、塩原牧の比定地でもある。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは浦野氏です。同氏は滋野三家の一つ、祢津氏の早くからの分流、祢津氏系図によれば、祢津貞直の子、貞信が浦野三郎を称したのがその始まり、平安時代の末期には浦野荘の開発領主として既に在地していたと考察されている。
「吾妻鏡」によれば、建久元年(西暦1190年)十一月七日、源頼朝上洛の際の先陣の随兵行列、四十三番の内に浦野太郎の名が見える。又、未見だが、「承久記」、「宇治川合戦」の項に幕府方として浦野四郎の名が見られるらしい。
観応二年(西暦1351年)六月十日、祢津孫次郎(宗貞)宛、足利尊氏御教書案には、「金澤弥名寺雑掌光信申信濃國太田庄内大倉郷地頭職事、重訴状如此、度々被仰先使之處、不事行云々、所詮、浦野勘解由左衛門尉相共、不日莅彼所、退嶋津大夫判官宗久跡代并高梨能登守(經頼)以下之乱妨、厳蜜(密)沙汰付下地於雑掌、可執進請取状、且遵行實否、来月中載起請之詞、可被注申、使節令遅引者、可處罪科之状、依仰執進如件、」とあり、足利尊氏は、祢津孫次郎に、浦野勘解由左衛門尉と相共に、嶋津大夫判官宗久跡並びに高梨能登守による信濃國太田庄内大倉郷における乱妨を退けさせ、金澤弥名寺雑掌、光信に下地を渡付するよう指図している。幕府は祢津孫次郎が、浦野勘解由左衛門尉と少なくとも相談が出来る関係にあった事を認識していたようだ。
応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、反守護方として浦野式部丞が参陣しているが、何故か祢津氏の一党の内には含まれておらず、村上中務少輔満信の麾下にその名が見られる。
「諏訪御符禮之古書」、寛正五年(西暦1464年)甲申御射山の条には、「一 下𡑭禰津田中代官浦(野)駿河守直貞御符之禮二貫三百文使次郎太郎頭役十貫」、文明二年(西暦1470年)庚寅五月會の条には、「一 宮頭田中禰津知行代官浦野駿河守直貞御符禮一貫八百文小田中より三百文出候使孫六頭役二十貫」、文明八年(西暦1476年)丙申明年五月會御頭定の条には、「一 右頭禰津田中代官浦野駿河守神直貞御符禮二貫三百小田中殿より三百出候副状付候頭役二拾貫」とあり、禰津氏の知行地、田中の代官として浦野駿河守神直貞の名が見られる。ちなみに名の前に付く「神」の字は祢津氏と同様に神氏である事を表している。但し、浦野氏が神使御頭を勤めた記録は見当たらない。
居館の現況は…前述したとおり上田市立浦里小学校となっている。現地説明板によれば、阿鳥川から引水した堀跡が水路として名残りを留めているそうなので、この事を鑑みれば居館地はグラウンドを除いた部分の殆どがそうであったと考えられる。城郭遺構としては西辺と南辺に土塁の残滓が確認出来るが殆ど全てが削れており、正直なところ遺構として見る事が全く出来ない代物だ。ちなみに北側には阿鳥川に沿って東行する保福寺峠道が通り、武田氏の拠点城、岡城へも直接通じている。この峠道はかつての東山道の道筋に比定されており、居館地から西方へ約1.3kmを進むと浦野駅の推定跡地へと辿り着く。
過去に2回程訪ねた事はあったんだけど、何れも授業中だったんで探索は諦めてしまっていた。土日になると開放とまではいかないんだろうけど、傍若無人に出入りしても誰も気にしない(挨拶さりるぐらい…)。5年越しでようやくこの物件に区切りを付ける事が出来たよ…
※足利尊氏御教書案〜「信濃史料」ではそうしているが、書状は足利直義が発給したものである可能性が高い。祢津宗貞は直義党であり、同月廿九日には野邊原において尊氏党の小笠原爲經等と合戦に及んでいる。
※信濃國太田庄内大倉郷における乱妨〜謂わゆる押領だ。当時の大倉郷は金澤弥名寺の寺領地、これを認めた幕府には訴えがあれば乱妨を退ける責務が発生する。
※写真④、背景に写る山稜が同じ岡城のリア攻めマップにある浦野氏の要害、浦野城だ。









