御所の堀の内
御所の堀の内([上田城 周辺城郭])
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御所の堀の内の口コミ情報
2024年07月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回は、おいらが最も苦手とする住宅地の「堀の内」の口コミっす。石を投げられても絶対に止めないwそして全力で投げ返すw人がやらない事をやる。今後も誰も見向きもしない物件にスポットを当てていく。
御所の堀の内は上田城の南西約1.2km、千曲川南岸(左岸)、標高約441mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「祥雲寺」を目標に設定して下さい。信濃のお城の神は、この寺院とその周辺一帯を該地に比定している。当然、車も捨てられる。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。現在は字地名としては残っていないのだが、地名は、寛永二十年(西暦1643年)の「御所村田畑ならし帳」…に基づいているんだそう。信濃のお城の神もこの物件には情熱を持てなかったらしく、…この館主や館歴については「御所村の歴史」(平成元年)を参照されたい。…てな感じ…それならばと同書を上田市立図書館で検索しよかなと思ったんだけど、阿呆らしくなってきたんで止めてしまった。
「長野県町村誌」には、「御所跡」として、「里老の口碑に村の中央、字木ノ下に在しに、寛保二年(西暦1742年)壬戌八月、千曲川大満水にて流出す。往古、高貴の人の居跡ならん。本村(御所村)の名、是より起こりしなるべし。」とある。
該地の上田市御所は、御所村の成立以前には上之條郷と呼ばれていたと推測されており、天正六年(西暦1578年)二月の「上諏訪造営帳」には、「二之御柱 小県之郡」として、「小泉之郷」、「上田原郷」、「下條之郷」、「上畠之郷」、「中條之郷」、「小槇(牧)之郷」等、周辺の郷村と共に「上條之郷」が見られ、同郷は五貫文を負担している。
天正十一年(西暦1583年)三月十二日、片岡助兵衛宛、真田昌幸宛行状案には、「拾貫文 諏方部内 五貫文 上条之内 廿貫文 南かた 合三拾五貫文 以上」とあり、真田昌幸は、片岡助兵衛…に、小県郡の内から「上条之内」を含む合計三拾五貫文の地を宛行っている。但し、知行地は散在しており(給地と言った方がよい。)、助兵衛…の居館地とは到底考え難い。町村誌が言う、「高貴の人」にも確実に当てはまらないだろう。
実は2回目の訪問…折角近くを通り掛かったんでついでに寄ってみた感じ…前述の祥雲寺の創建年は、天正年間(西暦1573年〜1592年)、開基は清月和尚と伝わるので、御所跡の「堀の内」を寺地に活用したんだろうか。後に同寺は寛保二年(西暦1742年)、千曲川の洪水、「戌の満水」により流失している。但し、洪水以前の集落自体がやや北方、千曲川沿いに位置していたそうなので、現在の寺地は再建の際の移動によるものかもしれない。又、町村誌の記述を見ると、御所跡の位置は寺地とは別の場所だったとも考えられ(名勝として祥雲寺は別に取り上げられている。)、更に言うならば、そもそも論で「御所」と「堀の内」を同一物件として扱ってよいのかも疑問である。何れにせよ城郭遺構は完全消滅、該地を特定する術は無く、もはや小綺麗なお寺さんとしか頑張っても語れない。
現在の上田市城下地区周辺を散策してると常に疑問に思う事がある。千曲川に面する一目瞭然の氾濫原にも拘らず、現在よりも川幅が広く、水位も高かったであろう時代から開発が進められたのは一体何故だろうか。現在の標高でも千曲川の川床から概ねで5m以内の高さでしかない。河川改修、治水事業が整った近代においても大規模な氾濫が好発した地域であり、令和元年(西暦2019年)に発生した台風19号がもたらした甚大な被害は記憶に新しい。氾濫原故の肥沃な土地は、これ等水害の危険性を差し引いても諦め切れないものだったんだろうか。こうした疑問は各市町村誌では語られない事情の部分である。
※片岡助兵衛〜やっぱりそういう人だったんだろうか。現在では付けられない名である。ちなみに「兵衛」は、唐名の「武衛」を元とし、「助兵衛」は本来ならば、「すけのひょうえ」と読ませる。ややこしいけど、小田原で秀吉に悪態をついた花房職之も助兵衛だった。
※上田市城下地区〜千曲川南岸(左岸)沿いに位置する。謂わゆる上田城の城下ではない。
※写真を撮ってたら近傍の方から、「別に古いお寺さんでもないわよ。」て言われた。今の堂宇と庫裡は平成五年(西暦1993年)の再建らしい。ちなみに祥雲寺は、学制頒布直後の明治六年(西暦1873年)、「亮功学校」として堂宇が利用された。当初の生徒数154名、未就学児は63名、地区の就学率は70%だったんだそう。