中城(飯沼城)
中城(飯沼城)([上田城 周辺城郭])
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中城(飯沼城)の口コミ情報
2026年08月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
中城(飯沼城)は上田城の南南東約6.6km、千曲川南岸(左岸)、依田川西岸(左岸)、標高約503mの段丘台地東縁上平場に立地する居館城です。台地東側直下の上田市立丸子北小学校からの比高は10m位でしょか。謂わゆる典型的な崖端城だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。たぶん路駐以外は無理だと思う。
築城年代は不明、築城者には依田氏が推測されている。同氏は清和源氏満快流、源満快の曾孫、為公が信濃守に叙任されて任国に下向し土着、その六男、六郎為実が小県郡依田庄に入部し、在名を取って依田氏を称したのがその始まりと伝わる。但し、同氏の出自については本姓を異にする別の説もあり論争に決着が付く事は無い(果てしないので語らない。)。
依田六郎為実は、依田庄の開発領主となり、その子、次郎実信は、木曽義仲の挙兵に際して居城の依田城を明け渡してこれを援けた事で知られている。依田氏は義仲の有力な軍事的パトロンの一つであった訳だ。「源平盛衰記」には、義仲に従い北陸道を進み、寿永二年(西暦1183年)五月十一日の「倶利伽羅峠の戦い」の際に一手の将として活躍した「余田次郎」が書かれているが、後の義仲の都での失敗によって同氏は凋落、閉塞を余儀無くされる。
建暦三年(西暦1213年)五月の「和田合戦」の際には、与田小太郎(為実の子、実信の舎弟、豊平か。)が幕府方に参陣して討死している。この時期の依田氏が御家人であったのかは不明だが、少なくとも討死した者の内に数えられるような立場にはあったようだ。
依田氏は一時期、依田庄内飯沼の在名を取って飯沼氏を称したとも云われ、承久三年(西暦1221年)六月の「承久の乱」においては、飯沼三郎(依田資行)が幕府方として参陣している。但し、依田氏が開発領主となった依田庄は幕府と縁の深い八田氏が地頭職となっており、飯沼も同氏が相伝する所であった。貞応元年(西暦1222年)二月二十一日、茂木(八田)知基は、依田庄内五箇村の地頭職をその子、一王に譲っているが、飯沼はその内の一村である。
得宗被官であったのかは別として、依田氏は執権家に接近し、その信任を得て幕府内での地歩を固めていったと考察されている。鎌倉時代には、執権の使いとして九州に下向した五郎左衛門行盛があり、その舎弟、中務丞朝行は、幕府の評定衆、奉行衆にその名を連ねている。依田庄の回復もこの時期に求める事が出来るだろう。
依田氏の系譜は、家祖、為実の子、実信の二男、行俊が飯沼太朗を名乗り本流となったようだ。前述した、飯沼三郎(依田資行)、五郎左衛門行盛、中務丞朝行は皆この流れの中にあり、戦国時代の芦田(依田)氏も系図上は朝行に始まっている。
「長野県町村誌」には、「飯沼組巽(南東)の方、田野の平地にして中城と号す。西堀東堀と稱す堀あり、今宅地となりて其形状を損す。古館は依田川の水崖にありて御所と稱す。往古飯沼の城市は城西に続きて四丁町(約400m四方の町割り。)、深町、新屋の稱あり。天文(西暦1532年〜1555年)以降の兵災に四方に散じ、古館の地に移りて、該地少礫荒蕪の水路となりて、町名御所の稱は字に存せるのみ。其城の鎮守に弥勒と云る小社あり。又五輪塔あり。傍に古墳あり。又飯沼氏の氏神として祭れる。八幡大神は今字深町に存す。余地ありて村人祭祀をなす。維新の際上知す。」とある。
縄張は推定堀等から導き出された6郭で構成され、縄張図における通称5郭、6郭には一族や被官衆等の屋敷地が推測されている。全体的には一般住宅地に変貌しているが、後世に用水路を通した西堀が健在、舗装道路の一部も堀跡を踏襲している。通称4郭には「御所」の小名が残り、西堀の中には「オチホの井戸」と呼ばれる水場、東側崖地直下は「ヒドロッ田」と呼ばれ、此処には泥田堀が推測されている。ごく最近までは喰い違いの虎口や築地塀の基壇を思わせるようや石積みも見られたようだが、現在は改変されてしまい僅かな段を残すのみだ。居館城としての形状や形態はそれなりに保たれていると思われ、地形段差マニアなら十分に楽しめるだろう。
この依田氏は結構、難解な一族だ。特に南北朝時代から室町時代にかけて、同氏が在府において、評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出し、在地においては多くの分流が佐久郡に派生、それぞれが大井氏の下で独立して発展していった。各種史料等には依田氏を称する者が多数登場するが、根本的に既に惣領と呼べるような系統が見当たらないように思う。
※現地説明板が城域外に立っている。
※源満快の曾孫、為公〜信濃源氏、伊那源氏の祖となった。南信に勢力を扶植させた片桐氏もこの系譜に連なる。
2025年08月17日 雷桜
住宅化されていて遺構は見当たりませんでした 近く館跡の案内板があり見所としてはその辺りですかね









