孫台
孫台([上田城 周辺城郭])
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孫台の口コミ情報
2026年02月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回はとある丘の口コミ、今となっちゃ何処から見ても何の変哲もないそこら辺の丘なんだけど、かつては歴史上の超大物が戦いを繰り広げたスペシャルな場所である。
孫台は上田城の南東約5.2km、千曲川南岸(左岸)、依田川西岸(左岸)、両川の合流点の南西、標高644.5mの丘陵頂部上平場に立地する狼煙台や物見台の類いです。北麓の千曲川からの比高は180m位でしょか。
行き方はGoogleマップに「孫台城跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。一応、私道の農道が伸びているので丘陵頂部に車で横付けが出来るが進入するのは止めておこう。従って車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかする事になる。
「長野県町村誌」には、「尾野山組東方高地にして、尾山氏別業の跡なり。東西二十間(約36.4m)、南北十間(約18.2m)、中に石塁あり、古墳三基又五輪塔あり。佐久、小県の方言、古墳ありし地を臺(台)と称す。此地四望目に遮るなく、遠山大川、城市、寺塔目前に現出して景色殊に佳なり。」とある。
承平八年(西暦938年)、平将門の関東での横暴等を朝廷に愁訴すべく上京を企てた従兄の平貞盛は、天慶二年(西暦939年)二月二十九日、信濃国小県郡国分寺付近で将門勢に追い付かれ、同名は、滋野恒成、他田真樹等の小県郡に割拠する武士団と共に合戦に及ぶが打ち破られた。この際に貞盛勢が張陣したのが孫台(丘)の北側斜面と伝わり、眼前の千曲川を挟んで追手勢と激しく戦ったが、他田は矢に当たって討死(「将門記」)している。
町村誌の記述によれば、同じ上田城のリア攻めマップにある赤畑の館に居した「尾山氏別業の跡」という事になるが、信濃のお城の神は、これを立地を生かした狼煙台や物見台の類いであったと考察している。「此地四望目に遮るなく、遠山大川、城市(町村誌の記述は明治時代初頭の話、上田城の事かと思われるが全く見えない…)、寺塔目前に現出」とあるのだから、対岸の信濃国分寺も良く見えたのであろう。
孫台の丘陵は後世に全山耕作されていたらしく、今も南側斜面では小さな果樹園が営まれている。見るべきものは特に無いが、丘陵頂部の東端には確かに円墳が残っており、狼煙台や物見台の役目を果たすのにはこれでも十分であったろう(守る必要が全く無い。物見を終えて狼煙を上げたら逃ればよい。)。ちなみに周囲も含めて樹木があまり生えていないので展望は今でもすこぶる良い。
色物物件でもある訳なんだけど、ブログなんかを拝見させて頂くと孫台を城跡として紹介している例が殆どだ。忖度して陣城と言えなくもないんだけど、少なくとも中世には普請する必要の無い単なる狼煙や物見の場に過ぎなかったと考える。この場所に何か意味のあるものを見出そうとするのは間違っちょる。それよりも平将門関連の史跡として訪ねた方が遥かにマシだろう。
※律令制下における古代官道、東山道の周辺における正確な道筋は発掘されていないので殆ど不明だが、平貞盛の上洛経路は旧官道に準じたものと考えられる。孫台西方の旧亘(日)理駅(現在の上田市常盤城の千曲川河畔が推定地だ。)で千曲川を渡らず、岩下付近で同川を渡ったとも推測出来るのだが、これは将門勢に追い付かれる前に千曲川を渡る事を急いだのがその理由であろうか。ちなみに同名は山中に落ち延び夜露を凌ぎ後に上洛を果たしている。
※滋野恒成、他田真樹〜小県郡の武家の始まりは、まず他田氏が興って滋野氏がこれに続いたと考察されており、他田真樹は小県郡郡司でもあった。他田氏自体は郡衙等に勤仕する在庁官人を主に輩出する等した氏族だが、次第に国衙、国司に権限が集中するに及んで史料に現れなくなる。









