赤畑の館
赤畑の館([上田城 周辺城郭])
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赤畑の館の口コミ情報
2026年02月19日 内記かすりヾ(・ε・。)
赤畑の館は上田城の南南東約5.3km、千曲川南岸(左岸)、依田川西岸(左岸)、標高約648mの丘陵地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は少し距離があるが、同じく位置登録がある「尾野山公民館」に捨てる以外に場所が無い。ちなみに居館地に上がる道が狭く軽自動車での進入も躊躇われる。
該地の小県郡尾野山は中世には依田庄の内、今まで特に意識する事は無かったが、千曲川の渡し場へと通じる交通の要衝であった。即ち、「尾ノ山」から西行して須川の丘陵台地上から小牧山を下り、小牧から千曲川を渡って常田へと至る古道が通る他、東方には飯沼から北行して千曲川を渡って岩下へと至る古道が通っており、どちらも千曲川を渡れば信濃国分寺は指呼の距離だ。尾野山は正に両道を直接扼す関門の地に当たっている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には尾山氏が推測されている。同氏は史料に殆ど現れない氏族であり、その詳細は不明であるとしか言いようがない。
依田氏、飯沼氏、二氏の後裔と伝わるが、いつの頃からか海野氏に従っており、「海野平の戦い」の前日に当たる、天文十年(西暦1541年)五月十三日には、諏訪勢、武田勢、村上勢によって同じ上田城のリア攻めマップにある、要害の尾野山城が攻め落とされている。以降、尾野山には村上氏の差配が及んでいるが、尾山氏が在地で存続し得たのかについては判らない。
天文拾参年(西暦1544年)甲辰六月吉日、福澤修理亮顯昌は、伊勢大神宮に、「ならもと(小県郡奈良本)の地より貮貫文」、「うちむら(小県郡内村)の地より壱貫貮百文」を新たに寄進し、別に「尾山之義者、如前々可有所納候、但土貢之義者、其年之可為風義候事」と書き、以前から納めていた尾山については寄進の際の条目を新たに定めている。福澤修理亮顯昌は、村上氏の塩田庄代官であるが、塩田から距離のある尾野山も差配する所だったようだ。
生島足島神社文書中、「海野幸光等連署起請文」には、海野左馬亮幸光、常田七左衛門尉綱富、桜井駿河守棟昌、小艸野若狭守隆吉、下屋与三右衛門尉棟、奈良本新八郎棟広、石井右京亮棟喜、桜井平内左衛門尉綱吉、真田右馬助綱吉、神尾惣左衛門房友、金井彦右衛門房次等と共に、尾山右衛門尉守重がその名を連ねている。武田氏時代には小県郡の海野衆を構成する一氏であるが、「甲陽軍鑑」によればその軍役は六騎、戦国時代における凋落は否めないだろう。
武田氏滅亡後の消息も不明だ。元和八年(西暦1622年)の「貫高 小県分限帳」を雑に調べてみたが、上田藩〜松代藩家中に少なくとも尾山の姓を持つ人物は見当たらなかった。
居館の現況は…畑地、耕作放棄地、空地、墓地、春日社の境内等となっている。居館敷地範囲は不明確であり、城郭遺構は完全消滅していると思われるが、時代不明なるも北東隅には櫓台様の土の高まりと土塁様地形を見る事が出来る。尾野山集落の最上段に当たり、東方への展望に優れ、要害を後背に控えたその占地は武士の居する場所としては最良の一つだと言えるだろう。ちなみに現在は赤畑地籍にあるが、かつては「御所窪」の小名が残っていたらしい。
尾野山は平地より高い丘陵地上にあり、洪水等の河川による影響を受け難い反面、水の確保には相当に苦労したようだ。周辺には田地がほぼ見当たらず、今も農業用水の殆どを溜池に頼っている。生活用水は掘り抜き井戸から汲み上げられ、上下水道の整備によってその役割を失ったが集落内には幾つかの井戸がそのままに残されており、総称して尾野山七井戸と呼ばれている。
尾野山七井戸の一つ、興良井戸は、天文十七年(西暦1548年)、佐久郡小諸の興良氏が武田氏に従って村上氏を攻めた際に尾野山に張陣し、この井戸を水の手として利用した事がその名称の由来と伝わる。年次から謂わゆる「上田原の戦い」の際の出来事かと推測出来るが、尾野山は武田勢の通過点となったのであろうか。同戦いにおける陣場の位置を鑑みればあり得ない話ではないように思う。
※同戦いにおける陣場〜上田城のリア攻めマップにある上田原合戦武田軍陣所の事、インスタにはアップしていたような…









