屋代源吾の墓
屋代源吾の墓([上田城 寺社・史跡])
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屋代源吾の墓の口コミ情報
2026年08月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代源吾の墓は上田城の西方約3.0km、浦野川東岸(右岸)、千曲川南岸(左岸)、標高約426mの平野部平場に立地する墓所です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は目の前の空地に捨てられる。
天文十七年(西暦1548年)二月十四日、武田勢と村上勢とが激しく戦った「上田原の戦い」の際に討死した屋代源吾基綱の墓所が今回の口コミ…
武田勢が、村上氏の本拠地、埴科郡坂木へ向かうとの報せを受けた村上義清は同地を出立し、上田原を東麓に見る、天白山に張陣してこれに対峙する。従うのは北信濃に割拠する国人衆等、総勢五千余(「甲陽軍鑑」)、村上氏と同族、埴科郡船山郷、屋代郷に拠る屋代氏も、当主、正国以下、その嫡子、基綱等が参陣した。
戦いは武田方の主だった者を数多く討ち取った村上勢が勝ちを収めたて考えて間違いは無いて思うんだけど、同勢もそれ相応の犠牲を払った事は確実であり、基綱もその内の一人に数えられる。初陣であったとも伝わるから年齢的には十代だった事は確実だろう。実父の正国の生年を考えれば小学校六年生…ぐらいだったとも考えられるんだけど、名が伝わるんだから現服はしていた筈…
墓所は田地の中の塚様の盛り土上にあり、五輪塔は4基を数える(残欠からすれば5基かもしれない。)。但し、どれが基綱の物なのかは判らない。今は長閑な田園風景の中に埋没してしまい知らなければ通り過ぎてしまうような物件なんだけど、日差しの強い夏場の日中でもどこか物悲しげな雰囲気を漂わせているのは木陰だから…い、いや、同名の若死を知っているからだろうか。長命すれば歴史にその名を刻む事も出来たろうに…基綱が生きていれば屋代氏がどうなったのかは語るべきではないんだけど、後の同氏は分流の室賀氏から養嗣子(正長と秀正、何れも正国の舎弟である満正の子、即ち甥に当たる。)を迎えて武田氏時代を生き抜き、天正壬午の乱の際には上杉氏を離反して徳川氏に出仕、最終的には小大名を経て大身の旗本として明治維新を迎えている。
有名な板垣信方の墓所から直線距離で400mもない場所に位置するんだけど、残念ながらこちらを訪ねる人は少ないようだ。おいらは細かな口コミを嫌う(ちょと言わせてもらうんだけど、説明板とかガチで口コミする必要あんのか?現地で見させてくれや。本来ならスポット登録だけして必要なら写真を置いておけばよい筈…)んだけど、1件として扱える物件なんでどうか許してちょ。
※滅茶苦茶あっさり終わらせよて思ってたんだけど、結局は書きたい事が多くて長くなるていう…
※身体が溶けそうな夏場の時期にお山に入るよりは、当地の歴史に触れられるこの手の物件を訪ねた方が遥かにマシだて思ってる。
※「上田原の戦い」の様相を伝える物は「甲陽軍鑑」ぐらいしか見当たらないんだけど、ちょと内容が酷過ぎるように思う。史料的には否定される向きもある書物(その殆どは伝聞情報だ。)なんで此処では語らない事にする。同じ伝聞情報とはいえ、「勝山記」が書く、「…河(産川)ヲコタテニ取り候而、軍ヲイレツ見タリツ被食候、去程ニ甲州人数打劣テ、…」が最も正確か。
※屋代氏はアプリの登録城、屋代城の城主であった。同城を訪ねる事があったら家督を継ぐ筈だった源吾基綱の事を是非思い出してくらさい。
※実父の正国の生年を考えれば小学校六年生…ぐらいだった〜永正十七年(西暦1520年)の生まれと伝わるから15歳の時の子としてもそりぐらいにはなってしまう…正国の生年を正しいものとするならば、実際には基綱は舎弟であり、子宝に恵まれない実兄の養嗣子となっていたのではないだろうか。この辺の事情等は後究して整理が必要だて思うさ。









