上田原合戦武田軍陣所

上田原合戦武田軍陣所([上田城  周辺城郭])

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上田原合戦武田軍陣所の口コミ情報

2026年08月07日 内記かずりヾ(・ε・。)


上田原合戦武田軍陣所は上田城の南南西約3.0km、産川東岸(右岸)、浦野川東岸(右岸)、千曲川南岸(左岸)、標高563mの通称、倉升山(物見山)の北西斜面中腹、標高約498m地点の平場を中心に立地した陣所です。北麓の用水溜池、長池からの比高は35m位でしょか。陣所は「御陣ヶ入」の小名が残る場所である。ちなみにこの倉升山だが山頂が何処になるのかがよく判らない。従って標高は山稜の最高所と思われる地点を選んでいる。

行き方は…とりまGoogleマップに位置登録されている「ツルヤ神畑店」を当座の目標に設定しよう。後はリア攻めマップを参照して陣所を特定する。行き止まりの道を登る事になるんで車は終点にでも捨てればいいさ。

天文十七年(西暦1548年)二月十四日、武田勢と村上勢とが激しく戦った「上田原の戦い」の際に武田勢が陣所を置いた場所だ。

「長野県町村誌」、神畑村の項に、古跡として、「御着」と「(御)陣ヶ入」がある。付近には、「御陣ヶ原」、「鉦ヶ久保」等の小名が残る他、倉升山から伸びる北東尾根には「相図山」、北方尾根には「兵糧山」の小名が残っている。

甲斐府中を出立した武田勢は諏訪郡に至り、板垣駿河守信方が引率する諏訪衆、小山田出羽守信有が引率する郡内衆と一つになり、雪深い大門峠を越えて埴科郡坂木(坂城)へと向かう途上、千曲川左岸地域の上田原において天白山に張陣する村上勢と対峙するが、家中で重きを為す信方が諏訪郡に帰る事は無かった。

「高白斎記」、天文十七年(西暦1548年)の条には、「天文十七戌申、年、正月小、戌刁、…中略、十八日乙未、御具足召始ル、信州於本意ハ相當ノ地可宛行ノ由御朱印被下候、二月大丁未、巳刻、向坂木ヘ、雪深クツモリ候間、大門峠ヨリ御出馬、細雨、夕立、ミソレ、二日戌申、小山田出羽守(信有)出陣、十四日庚申、板駿(板垣駿河守信方)、甘備(甘利備前守虎泰)其他討死、十五未刻申来ル、十七日辛亥、甘利藤蔵ヲ呼、兵始テ仕始、申刻並門出向東方、十九日相模(今井信甫)ト高白(駒井高白斎)致談合御北様(武田信虎室、武田晴信の生母、大井の方である。)ヘ申上、野村筑前守、春降出雲守両人御陣所ヘ参リ、御帰陣之御意申上ル、三月小、丁丑、五日、諏訪ノ上原迄被納御馬、十四日庚刁、始テ諏訪神三郎方ヘ山ノ内分被下候、従高白所越人候得共上意、」とある。

「勝山記」、天文十七年の条には、「此年ノ貳月十四日ニ信州村上殿ノ在所ニ塩田原(上田原)ト申所ニテ、甲州ノ春(晴)信様ト村上殿カンセン(合戦)被成候、去程ニタカイニ見合テ、河ヲコタテニ取り候而、軍ヲイレツ見タリツ被食候、去程ニ甲州人数打劣テ、イタカキ駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内殿、ハシカ子傅衞門尉(初鹿野伝右衛門)殿、此ノ旁々(方々)打死ニ被成候而、御方ハ力ヲトシ被食候、サレモ御大将ハ本陣ニシハヲフマイ被食候、小山田出羽守殿無比類動被成候、御上意(武田晴信)様モカセテヲナケキ無シ限、サレモ軍不止、」とある。

板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守信綱、初鹿野伝右衛門高利等の家中の主だった者が討死、武田勢が大いに打ち負け、武田晴信にとっては初の敗軍となった戦いであった訳だが、村上勢もそれ相応の犠牲を払った事は確実であり、あくまでも痛み分けとするのが正しいように思う。戦いの結果は、晴信自身も二箇所に薄手の傷を負った事等から武田勢にどうしても分が悪いが、何よりも戦いの後に上田原に留まっていたのが同勢であった事は注目に値する。又、双方に追い討ち(合戦時の死傷者が最も発生する。)をかけるだけの余力は残されていなかったのだから、戦国時代でも珍しい極めて激しい戦いであったようだ。

陣所の現況は耕作地、山林、空地、一般住宅地等となっている。謂わゆる上田原を前にする高台であるが、「御陣ヶ入」の範囲は尾根間鞍部にある事もあって手狭に過ぎ、武田勢の一部、本陣が置かれた場所なのだろう。山際には前述した「御陣ヶ原」の小名が残っている事から、同勢は高台の本陣を中心に下段へ向けて扇状に張陣した事が窺い知れる。陣城としての構築は無かったと思われるが、産川を前にし倉升山を背負う、兵法書通りの手堅い布陣だ。

「高白斎記」によれば、二月十四日に戦いがあり、十九日に今井信甫と駒井高白斎が談合し、大井夫人へ事の次第を申し上げ、野村筑前守と春降出雲守が使いとなり退陣を言上させ、武田勢が諏訪郡上原に帰ったのは三月五日であったと書かれている。最低でも二週間以上を上田原で耐え忍んでいた事になる訳だが、向後の信濃経略を見据えての若き晴信なりの意地であったろう。決定的な敗軍を周囲に印象付ける事を嫌い、服して日も浅い信濃国人衆等の離反を避けるためにも必要な処置であったと考えられる。

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