緑川の堀の内
緑川の堀の内([上田城 周辺城郭])
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緑川の堀の内の口コミ情報
2024年07月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、長野県上田市は、中世城館跡を示唆する「堀の内(内堀)」の地名がよく残っている行政区なんだけど、この地名の意味するところは文字どおりの堀の内側の地である。類似品には、「〜垣内」、「くねの内」なんてのもあったりして、こちらの方は垣や塀の内側の地を意味している。近世城郭の外堀内に残る「堀の内」とは違い、地名が示す範囲は狭小であり、武士の住まう場所、居館地、屋敷地以上のものは殆ど存在しない。
個人的に城館廻りをしていて最も辛いのが、謂わゆる「堀の内廻り」だ。後世、水田や耕作地と化した物件なら許せるんだけど、市街地や住宅地の中に地名が残っている場合も多く、そのリア攻めとなると正に異常者の所業でしかない。最大の問題点は、付近住民に「堀の内」の認識が無く、その理解が全く得られない事、該地にお住まいの方にとってどうでもよい事なのは当たり前の事なのだ。おいらも理解して欲しい等との世迷言は一切吐かない。
緑川の堀の内は上田城の西南西約1.9km、千曲川南岸(左岸)、標高約432mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「千曲町公園」を目標に設定して下さい。この公園の一部とその周辺一帯が概ねの該地である。車の捨て場所は己れの持つ器量でなんとかしよう。リア攻めを1分以内に終わらせる事も十分可能だ。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。現在は字地名としては残っていないのだが、地名は、享保五年(西暦1720年)の「中之条村本貫改帳」に基づいているんだそう。信濃のお城の神もこの物件には情熱を持てなかったらしく、…その場所や館主については「千曲 第58号」(昭和63年7月)の田中正雄氏の調査報告書を参照されたい。…てな感じ…それならばと同書を上田市立図書館で検索してみたんだけど全くヒットしなかったので調べるのは諦めた。
該地の上田市中之条は中世には小泉庄上田原に含まれていたと推測される。嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、四番五月會分の条には、「左頭、小泉庄半分内上田原、津井地(築地)、穂屋(保野)薩摩守知行分、」とあり、工藤薩摩守(薩摩氏)の知行地であった。工藤氏は有力な得宗被官の一氏であり、建武二年(西暦1335年)、「中先代の乱」に際しては北条時行に加担、埴科郡の坂木北条(地頭職であった。)に要害を築いて立て籠ったが、信濃惣大将、村上川内守信貞の征討を受けて落城、乱の終息後には没落し、以降、信濃における同氏の活動は見られなくなる。
天正六年(西暦1578年)二月の「上諏訪造営帳」には、「二之御柱 小県之郡」として、「小泉之郷」、「上田原郷」、「下條之郷」、「上畠之郷」、「上之條郷」、「小槇(牧)之郷」等、周辺の郷村と共に「中條之郷」が見られ、同郷は四貫四百八十文を負担し、代官には大熊伯奢守の名が確認出来る。武田氏に出仕した、越後国頚城郡、アプリの登録城、箕冠城の城主だった大熊備前守朝秀の子等は、新左衛門尉長秀を除いて早くから真田氏に出仕しており、伯奢守はその内の何某かだろう。
居館の現況は…耕作地、公園、一般住宅地等となっている。敷地範囲は不明確、そもそも論で何もかもが平らげられてしまっており、往時を偲ぶ事が全く出来ない。阿呆らしいんで早々にこの場を立ち去りたかったんだけど、マイルール、「城館写真には人物と動く車を入れない。」が発動、結局は30分位の間、該地を彷徨う事に…
…街中遺構ハントでは「何やってるんですか?」とかよく声を掛けられるんだけど、最近は説明すんのが面倒なんで、「今度軽く工事に入るかもしれないんで、そのための写真を撮ってます。」等と、本当に工事に入るのかどうか微妙な空気を漂わせながら、仕事だから仕方が無い感ぢ?を装って己れの行動を正当化、相当な無理を言って質問をはぐらかしている。これでいいのかおいらは…今では山城ブームに続く居館ブームの到来を切に願っている。
※写真①は信濃のお城の神と同アングルを狙って撮影したもの。信者なんで…