真田館(真田宮内助館)
真田館(真田宮内助館)([上田城 周辺城郭])
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真田館(真田宮内助館)の口コミ情報
2024年10月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回は、みんな大好き真田ブランドの居館の口コミっす。皆さんの興奮する顔が眼に浮かぶぜ、真田の名前を書いて六文銭入れときゃ、扇子やトートバッグ、Tシャツだって飛ぶ様に売れるんだから(暴言…)。居館の主の名前は真田高勝、やったー♪そう、あの真田幸綱の実子っすよっ!えっ、誰それって?…
…(; ・`д・´) まさか知らない…
…ヾ(・ε・。)まぁ、いいや…
知らなくても無理は無い。なんせ「寛正重修諸家譜」に載らない人物である。対外的には真田氏の歴史から抹殺されたに等しいのだ。高勝は兄弟の活躍に隠れてどこか陰のある人物でもある。
真田館(真田宮内助館)は上田城の南南東約6.4km、依田川西岸(左岸)、標高約547mの丘陵地上平場に立地する居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は曹洞宗の寺院、不動山龍顔寺の一角、北野天満宮の境内であり、車はこの寺院の駐車場に捨てられる。同寺は居館の主の菩提寺でもあるが、びっくりするぐらいの大寺だ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真田宮内助高勝です。同名は、信綱、昌輝、昌幸、信尹の同母弟で、生母は河原隆正の妹とされる恭雲院、海野氏系金井氏の養嗣子となり家督を継承、金井高勝を称したんだそう。ところが、時期不明なるも突然帰農し、慶長十一年(西暦1606年)七月七日、ひっそりと飯沼で卒している。「寛正重修諸家譜」にその名が見られないのは帰農した故だからだろうか。戦国時代の華々しい真田氏の活躍の中にあって実に寂しい限りだ。文書上の初見もその没後らしく、慶長十二年(西暦1607年)六月廿六日、高勝寺宛、真田信之寄進状には、「宮内助殿為訪、為寺領三貫文之所令寄進候者也、仍如件、」とあり、甥に当たる真田信之は、高勝の菩提を弔う高勝寺を訪れ、寺領として三貫文を寄進している。ちなみに龍顔寺は、高勝寺が寛永年間(西暦1624年~1643年)に改称したものだ。
「長野県町村誌」には、「是真田宮内大輔信興、其子宮内助信光の居館たり。信興は源太左衛門信綱の庶子なり。」とあり、又、「…信興一子あり後早生す。其子信光慶長五年上田合戦の時は、若年にして左衛門佐幸村と共に大に戦ひ、関ヶ原平定の後、信幸に降りて飯沼の館に潜居す。同十一年七月七日病で卒す。法名高勝寺殿龍顔宗白。信幸、信光の為に一寺を創立して高勝寺と号す。其寺依田川の水崖にあり、水災によりて古館の地に移りて龍顔寺と称す。…」とある。但し、町村誌の記述は誤りだろう。
居館の現況は…前述のとおり北野天満宮の境内となっている。居館敷地内には「宮内様」と称する小祠が鎮座、西辺には二重の空堀が残っていたとされる(現在は消滅したようだ…)。又、土塁様の土の高まりも見られるが遺構かどうかの判断が難しい。ちなみに墓地の入口には立派な標柱が建っており、龍顔寺本堂の裏手には高勝の墓所が残っている。
実はインスタにはアップしている物件なんだけど、再訪したんで口コミしてみた。高勝の帰農の理由にあっては語られていないが、やはり慶長五年(西暦1600年)の「関ヶ原の戦い」以降の話になるんだろうか。大人な事情が窺えるし、さもなければ病が理由とも考えられる。ちなみに高勝の子、六郎高次は元和二年(西暦1616年)四月五日、「大阪夏の陣」において討死した。
※龍顔寺と真田高勝の墓所にあってはスポット登録して写真だけ置いておく。
※写真⑤が「宮内様」の石祠っす。「宮内宮」とも呼ばれている。