丸子城(依田城・飯盛城)
丸子城(依田城・飯盛城)([長窪城 周辺城郭])
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丸子城(依田城・飯盛城)の口コミ情報
2026年02月23日 気分爽快弾正少弼
安良居神社の近くにある駐車場を利用しました。
城山は、彩の森公園として整備されているので、10分程度で二の郭に到達します。
二の郭から本丸までは300m程ありますが、尾根道は平坦で歩きやすいので10分も歩けば本丸からの眺望が楽しめます。
内村川と依田川の間にある細長い丘陵なので、上田一帯を見渡せる重要拠点です。
①二の郭に向かう尾根道
②櫓上から見た二の郭
③遠くに見える本丸
④本丸手前の堀切
⑤堀切からつながる竪堀
⑥本丸
⑦腰越方面の眺望
⑧尾根道は根羽城に通じる
2026年02月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
マリコの部屋へ〜♪電話をかけて〜♪
マリコて言ったらアプリユーザーには駿河の丸子城なんだろうけど、信濃が主戦場のおいらにとっては上田市腰越の丸子城だ。そっちのマリコにはさしたる城歴は無いんだろうけど、こっちのマルコには燦然と輝く一つの功績がある。そう、後の天下人に追いで土を付けたのだ。信濃の国人の意地を舐めたらあかんわ。判官贔屓は会社をズル休み(遠い親戚等の不幸を語る。)してでも行っとけ。
丸子城(依田城・飯盛城)は長窪城の北方約5.2km、内村川東岸(右岸)、依田川西岸(左岸)、両川に挟まれた標高684.4mの通称、丸子城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の依田川からの比高は145m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないんで同じく位置登録がある「安良居神社」を目標に設定しよう。城山は「彩りの森公園」として整備されており、この神社の境内に「丸子公園北口登口」が設けられ、かなりの台数が捨てられる駐車場も付いている。他にも幾つかの登山道が伸びているんだけどこれがベストの選択、山城好きは大手筋を登って城域を縦断するのが本望だ。登口から主郭までは約0.8km、南北に長大な尾根筋だ。
築城年代は不明、築城者は丸子氏です。同氏は戦国時代以前のはっきりとした事跡が史料に現れない一族だ。
「長野県町村誌」には、「(飯盛の城とも云ふ)村(上丸子村)の西の方向山の嶺上にあり。東西十間(約18.2m)、南北八間(約14.5m)、今芝野なり。東は巌石險峻、高四十丈四尺(約122.4m)、其裾依田川を繞らし、西は断崖内村川を帯び、南は三町(約327m)にして本城(今腰越村に属す)に連り、北は稍低下して崖なり西南に回字形をなす三段、北の方に二段あり。丸子氏の二ノ城と云ふ。盖丸子氏代々の物見の城なるべし。本郡の村落一眼下に見ゆ。」とある。
天正十一年(西暦1583年)癸未正月廿九日、飯嶋市之丞宛、真田昌幸感状には、「今度向于丸子及行候處、河南之者共出備候處ニ、遂防戦、頭二ッ被討之候条、戦功無比類候、向後弥可相稼之事肝要候者也、仍如件、」とあり、真田昌幸は、飯嶋市之丞に、丸子に向かって手立てに及んだ際、河(千曲川)南の者共が出て備えし所に防戦し、頭二ッを討った事を褒して感状を与えている。同様の感状は他に四通が残されているが、天正壬午の乱の際に真田勢が丸子(城ではない。)へ攻め寄せた事に疑いは無く、後の経緯がはっきりしないとはいえ、丸子氏の当主、三左(右)衛門はこれ以降、真田氏に従う事になる。
天正十三年(西暦1585年)八月二日。真田氏と手切れとなった徳川氏が、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉等が引率する人数、数千を以て小県郡に攻め寄せ、上田城、神川において打ち破られたが、徳川勢は早くも翌日には八重原で人数の立て直しを図り丸子城へと取り懸かっている。
城主の丸子三左衛門は小勢にも拘らず、塩川の手白塚に張陣した真田勢の後詰を得て堅固に防戦し、二十日余りの城攻め(「丸子表の戦い」)は失敗に終わる。事後の同年八月廿八日、徳川家康は、岡部彌次郎(長盛)、大久保七郎右衛門(忠世)、松平(依田)源十郎(康国)、甲斐国衆等に十七通もの感状を発給してこれを慰めているが、謂わゆる「第一次上田合戦」において、徳川勢は二度の城攻めに難儀して佐久郡小諸に兵を退いた事になる。
前述したとおり徳川勢を退けた要害だ。特に技巧的である訳でもなく、峻険な岩山をフル活用した縄張、元々が容易に人を寄せ付けない要害地形である。堀切や竪堀、土塁等を楽しむのもよいかもしれないが、お山の険しさを堪能するのが正しいリア攻めの仕方だろう。特に凄まじいのが山稜東側の急崖の部分だ。文字通りの断崖絶壁、守手の人数を別に差し向ける事が出来るだろうし、寄手が大人数である利点は意味を為さなくなる。そう、正に山地の要害の基本概念が此処にはあるのだ。ちなみに周辺諸城多数を一望出来る主郭からの展望は絶佳だ。
縄張図における通称二の郭には黒い模擬櫓が建っている。この手の構造物は人によっては嫌う方も多いと思うんだけど、丸子城に限って言えばおいらは結構気に入ってる。遠くの山下からでも見る事が可能、このお山が城跡だと一目で判るし、郷土のランドマークとしては無物強請で羨ましい限りだ。武田氏の滅亡後、信長の横死後、小県郡の一国人領主に過ぎなかった真田氏の武名を高めるのに一役買った丸子城、同氏の戦国大名化にも地味ながら貢献している。真田ファンなら足を向けては寝られまい。
※徳川勢は早くも翌日には八重原で人数の立て直しを図り〜あまり例が見られない事をやってのけた三河武士等は褒められるべき。









