開戸城(義仲古城・依田城)
開戸城(義仲古城・依田城)([長窪城 周辺城郭])
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開戸城(義仲古城・依田城)の口コミ情報
2026年01月19日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
さて、今回、紹介する物件はおいらとの相性がとことん悪い城館跡、毎回の如く誰かしらの人が多人数でおり、恥ずかしさから常に探索を諦めてしまっていた。されど、今年のおいらは一味違うのさ。他人の視線を一切気にしない無我の境地を遂にゲットしたんだぜ。裏を返せば人間社会の一員である事を暗に否定する行動、傍若無人とも言える訳なんだけど、そんなに大した事はやっていないんで安心してつかぁさい。
開戸城(義仲古城・依田城)は長窪城の北方約7.1km、依田川東岸(右岸)、標高約526mの段丘台地上平場に立地する居館城です。
行き方はGoogleマップに「稲荷神社(開戸城跡)」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は隣接する、同じく位置登録がある「中丸子公民館」の駐車場に捨てられる。
該地の上田市中丸子は、中世には小県郡依田庄の内、丸子と称する一村であり、或いは滋野里とも呼ばれていたらしい。往古の事ははっきりとしないが、平安時代の末期、同庄内には幾つかの在地根本勢力が割拠していた事が確実視される。
築城年代は不明、築城者には丸子氏、依田氏が推測されており、丸子氏の居館地の一つに比定されている。同氏は、治承四年(西暦1180年)、木曽義仲の挙兵を援けた、円子小仲太で知られているがその出自は不明、大伴姓との関係で現れる、丸子部の後裔(地名が氏名から取られている。)とする考察があるようだ。
「長野県町村誌」には「古城跡」として、「(里俗傅に依田城と云)村(中丸子村)の辰巳(東南)の方字開戸にあり。西一丈(約3.0m)許低地なり。三方へ開け、平地にして今畑となる。源平盛衰記、平家物語に、養和元年(西暦1181年)九月、木曽義仲以仁王の令旨を奉じ、依田城に牙旗を掲げ、信上の諸将来属すとあり。」とあり、結構な絵図が添付されている。
町村誌の記述は伝承から依田城とも呼ばれていた事を伝えている。故に依田氏の築城とも推測されている訳だが、丸子氏の拠った丸子に依田氏が居館したとすれば、同氏による佐久郡芦田郷への進出が認められる室町時代中期以降の話かと思われる。
城域の東辺が特に不明ではあるが、城地に建つ丸子稲荷神社と中丸子公民館を中心とする一角がそれだろう。東側を除けば周囲より一段高く(改変でなければ段付きだ。)、南方の腰越、広く見れば諏訪郡から甲斐国へと通じる信玄古道を前にしており、武士の住まう場所としては最良の部類に入る。城郭遺構は完全消滅しているが、城域内には真言宗の寺院、長泉寺が建ち、別に八幡社の小社が鎮座している。
城地に建つ丸子稲荷神社は、治承五年(西暦1181年)六月に発生した「横田河原の戦い」を前にして、木曽義仲の右筆、大夫坊覚明が護摩を焚いて怨敵を調伏した社と伝わっている。これが故に義仲が築いた牙城とも云われているがその可能性は低いだろう。ちなみに現地説明板には、「…前略、居館跡が定かではない義仲の家臣円子小中太の館跡ではないかとも言われている。」とある。
…今回のリア攻めにおいて、おいらが5年間に亘って愛用してきたコンデジ、G9X君が昇天した。−10℃の寒風吹き抜ける山尾根上から、40℃に近いアスファルト上でも頑張ってくれた小さなカメラ…泣きながらカメラ屋さんに持って行ったら、「基盤が原因だと思うんで、直すとなると買った時のお値段位になりますね…」との死亡確認…絶望感に打ちひしがれていると、商品棚に展示されているつい先日発売されたばかりの上位機種に目が留まる…思わずその場で買っちゃいましたわ…ちなみに息も絶え絶えに最期の力を振り絞って撮影してくりた写真が⑧、う、浮かばれねぃ、や、やり切れねぇ…
※真言宗の寺院、長泉寺〜寛文十二年(西暦1672年)四月、儈恩泰坊が、字元寺浦から現在地に寺地を移したと伝わる。
※八幡社〜言わずと知れた源氏の氏神だが、この小社には珍しい事に僧形八幡神坐像が祀られている。
※大夫坊覚明〜木曽義仲上洛の際、延暦寺に対する高圧的な牒状を書いたのが覚明だ。
※写真⑧の工事中の部分は城域外に当たる筈だが、此処には摩利支天神を祀る小祠が鎮座していた。移動させられたと信じたい…









