上野屋敷の館
上野屋敷の館([松尾古城 周辺城郭])
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上野屋敷の館の口コミ情報
2026年06月18日 内記がずりヾ(・ε・。)
さて、居館廻りよFOREVER…
居館廻り=耕作地探訪…て言っても過言ではないぐらい田地や畑地に変貌している事が多いんだけど、そもそも論でこれ等に城館としての形状、形態、縄張、遺構なんかを最初から期待しちゃいない。極端な話、地方史を通じて知り得た数多くの無名の殿様達が、どんな場所に居館し、どんな環境にあったのかを現地に赴いて確かめる事(地域として広く見る必要がある。)に意義があるて常々思ってる。城館跡として殆ど何も残っていないのは事実だけど、探せばこれ等に繋がる色んな断片が周辺地域には幾つも転がっている。
今回、紹介するのは、皆さんがよく知る歴史上の人物が居していたのかもしれない…て想像出来るような物件、あの真田氏に関係しているのかもしれない居館跡だ。そう考えると畑や草むらの写真も何となく違った形で見えるでしょ。小県郡のスーパーエース、有名な真田幸綱や矢沢頼綱は此処で産まれたのかもしれない。訪ねれば誰でも調略名人や乗取名人にはなれる筈…
上野屋敷の館は松尾古城の南西約0.5km、角間川北岸(右岸)、神川東岸(左岸)、標高1610mの山稜山頂から西南へ伸びる尾根末端部直下、標高約825mの緩斜面上平場に立地した居館です。簡単に言えば松尾古城の南西麓に当たり、後背地からは同城への登路が伸びている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。少し判り難いが、同じく位置登録がある「(有)ビッククリエート」の工場の向かいから居館地へと登る農道が付いている。既に畑地は一部を残して放棄されているので車を適当に捨てても誰も気にしない。ちなみに松尾古城へ最短距離で登れるのは此処から、大して変わらないが少なくとも九十九折りの一辺分ぐらいはパス出来る。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には真田氏が推測されている。松尾古城の麓には真田氏最初期の居館地と推測されている、同じ松尾古城のリア攻めマップにある日向の館が立地しているが、発掘調査の結果にはこれを裏付ける出土品は無く、同氏の菩提寺であった常福院の跡との見方が強くなっている。上野屋敷の館がこれに代わるものとの確証も存在しないが、推定居館地の下段には「上野屋敷」の小名が残っており、少なくとも該地の松尾を知行地とする真田氏に関わる何らかの屋敷跡であった可能性が非常に高い。
居館地の西側下段には神川に沿う上州道が南北に通っており、北行すれば菅平口において大笹道に合流し、鳥居川に沿う同道を東行すれば鳥居峠を越えて上野国吾妻郡大笹へと至る。平安時代には同郡への進出が認められる海野氏にとっては重要な道筋の一つであったろう。真田氏が当初住したと推測される所は、角間渓谷のとば口にして、上州道が狭隘な谷筋へとに入る正に関門の地に当たっている。
居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、空地等となっており、居館地の東端部には送電線の鉄塔が建っている。城郭遺構は完全消滅しており見るべきものは特に無いが、一概に後世の改変とも思えない五段程度の広めの段が設けられており、雰囲気や纏まりだけなら何とか感じ取れる。ちなみに「長野県町村誌」の長村の項、「上野屋敷」の字地の記述には、「(長村)寅(東北東)の方、東西一町四十間(約182m)、南北三町(約327m)。」とあり、一族等の集住を窺わせるような敷地面積がある。
発掘調査によってかわらけや陶器片等が出土しており、中世の遺跡である事がほぼ確実視されている。真田氏が実際に居していたのかは別として、位置関係から松尾古城の根小屋であった事に間違いは無いだろう。又、その占地から必然的に道押さえの館でもあったと考えられる。戦国時代に機能していたのかは知る由も無いが、遠く上州へと出張する武田勢や真田勢を一段上から見送っていた筈だ。
※角間渓谷〜角間川沿いの一帯は熊さんの巣窟だ。地元の方は「熊に会うから気を付けてね。」てな感じで注意を促し、角間温泉の岩屋館さんでは熊鈴の持参を推奨し夜間の外出を控えるよう来館者に求めている。ちなみにおいらは令和二年の元日に松尾古城の後背地で元気な奴を目撃した。
※角間温泉の岩屋館さん〜若い頃に仕事にむかついて旅に出た際に泊まった事がある。その頃は山城なんてどうでもよい存在だった。









