横道の館(堀の内)
横道の館(堀の内)([横尾城 周辺城郭])
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横道の館(堀の内)の口コミ情報
2026年06月22日 内記がずりヾ(・ε・。)
横道の館(堀の内)は横尾城の北北西約2.3km、洗馬川西岸(右岸)、半田入谷川西岸(右岸)、両川の合流点を東方に控える標高約745mの段丘台地緩斜面平場に立地した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して居館地を特定しよう。車は付近に建つ下横道公民館の敷地に捨てられる。
居館地は、小県郡放火(傍陽)郷を構成した一村、洗馬村の横道にある。「長野県町村誌」によれば、洗馬村は、赤石、穴沢、田中、横道等の小集落によって構成されていたように思われるが、近世以前の管轄沿革等にあっては全くの不明だと言わざるを得ない。又、横道にはかつて菅平へと至る山道が通っていたともされているが、今となってはその道筋を窺い知る事は難しい。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の横道の東方の穴沢には、応永十年(西暦1403年)十月十八日の刻銘の入った「弾正塚宝篋印塔」があり、伝承から当地を治めていた半田弾正信久の墓塔と云われているが、同名と居館地との関係性等は知る由も無い。
居館の現況は…畑地、空地、一般住宅地等となっており、信濃のお城の神が該地から選び出した推定地となっているようだ。洗馬川に沿って徐々に低くなる南下りの段丘台地にあり、三段程度の低い段が認められるが往時もそうであったとは言い難いだろう。城郭遺構は確認出来ず、居館敷地範囲を判定するに必要な明確な基準は東辺のみに限られている。
…こりだけじゃ口コミが寂しいのでこの地域に関係するお話しをして締め括ろう…
真田氏は滋野姓海野氏の後裔を自称したりしているが確実だと言える系図は一切存在しない。同氏の系譜がはっきりとするのは、戦国時代に武田氏に出仕して活躍した真田幸綱以降の話である。
その一方で本来の真田氏の実系を大伴氏だとする説がある。古代に国牧等の牧官として牧経営に携わった大伴姓の一つが、神川、洗馬川流域に土着し次第に武士団化したのを真田氏の発祥とするものだ。
後に真田郷、放火郷等と呼ばれる地域に御牧の存在は確認されていないが、これ等とその周辺地域には牧に関係する地名が数多く残されている。即ち、洗馬川の右岸地域、大良の北方には「牧の平」が、同川の左岸地域、抗原にも宮原神社の北側に「牧の平」があり、地蔵峠の南方にも「牧の平」がある。又、神川の西方、傍陽川に流れ込む堤入谷川の右岸には「馬健(馬立)」、傍陽川の右岸から少し奥に入った所には「野馬除」と呼ばれる場所がある。更に言えば、アプリの登録城、真田氏館の後背地に当たる、烏帽子岳、湯ノ丸山へと連なる峰の中には「鞍掛」の地名が残り、菅平口の北方、大明神沢と中之沢に挟まれた所にも「鞍掛」がある。
寺社関係で見れば、真田氏が居館したと伝わる山家の山家神社には駒形稲荷社が、同氏が篤く信奉した山家神社の奥社が鎮座する四阿山の南方にもかつて駒形社が鎮座していた。又、横道の館の近く、天台宗の古刹、金縄山実相院の御本尊は馬頭観音である。
これ等の事実によって想像されるのは、謂わゆる真田之郷で大規模な牧が経営されていたという漠然とした当地の姿だ。多くの大小河川が集まる場所にして、標高が高く四方を山に囲まれた草原地帯である菅平を後背地に控えており、馬の飼育にこれ程適した環境はないと思われる。事実、菅平では今も牧場(菅平牧場)が経営されている。
突拍子も無く滋野姓海野氏の嫡流とするよりは、大伴姓の牧官を祖に持つ在地土豪の一氏であったとする方が遥かに現実的だと考える。海野氏や祢津氏との繋がり(縁戚、猶子、主従関係等)を求めるとすればそれからの話であろう。小県郡の武家の名族との関係性を強調し、当地の領主たるべくを正当化するが故に後世、真田氏の出自は捻じ曲げられたとさえ思えて来る。
※リア攻めしてたら集落のお婆ちゃん達、7、8人が集まって来る謎現象に…「あら、ちょっとこの辺りじゃ見ない良い男だよ〜」とか褒められてもそり常に言われてる当たり前の事なんで…
※洗馬村〜「洗馬」の地名自体は「土地が狭まる」から来ている筈…
※真田郷、放火郷等と呼ばれる地域〜住人には牧内さんが多く見られるんだそう。
※「牧の平」〜知らんかったけど、本来「平」とは緩斜面の事を言うらしい。ちなみに現在の菅平ではラグビー選手も育てている。









