吉野町館(堀の内)

吉野町館(堀の内)([平瀬城  周辺城郭])

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吉野町館(堀の内)の口コミ情報

2025年09月12日 内記かずりヾ(・ε・。)


吉野町館(堀の内)は平瀬城の西方約2.8km、犀川西岸(左岸)、標高約560mの平野部平場に立地した居館です。該地は奈良井川に合流する梓川が創造した大扇状地の沖積地にあり、かつての一帯は更新世の微高地であった疑いが強いらしい。

該地の吉野は比較的に新しい郷村であり、中世における安曇郡の三大町、大町、穂高、真々部の内、武田氏の滅亡によって衰退した真々部に代わり、天正十一年(西暦1583年)以降に開発が進んだようだ。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。

築かれた年代は天正十一年頃であろう。お住まいになられていた方には日岐丹波守盛武が推測されている。日岐氏は仁科氏の分流であるが中途断絶し、明応年間(西暦1492年〜1500年)、同じく仁科氏の分流、丸山氏の養嗣子となった丸山筑前守政友(当時の仁科氏当主、弾正少弼明盛の二男である。)の子、筑前守盛教が日岐氏を称するようになったんだそう。前述の盛武はこの盛教の嫡男であり、舎弟には更級郡八幡の神官家、松田氏を嗣いだ盛直がいる。

天正壬午の乱の際、日岐盛武は安曇郡内日岐城城主であったが、天正十年(西暦1582年)八月、同城に小笠原勢が攻め寄せ、盛武は暫く防ぐも九月には城は落城、同名は更級郡の八幡に逃れている。小笠原貞慶は盛武の出仕を望んだが不調に終わり、結局、以下に後述する起請文を血判を以て差し出し、同名の出仕を更に促している。

天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守、穂高内膳佐宛、小笠原貞慶起請文案には、「敬白 起請文事 一 今度無二可有忠信之由、不及是非候、國々其方并各々身上、聊如在有間敷候、将亦、判形之通、何も相違不可有之事 右之一ヶ条於違犯者、上者梵天、帝釈、四大天王、焰魔(閻魔)法王、下界之地者王城之鎮守、稲荷、祇園、賀茂、春日、惣而日本国中大小之神祇、冥道、別而諏方上下大明神之可蒙御罰者也、仍状如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守、穂高内膳佐に、異心無き事を誓い、両名の身上を保証すると言っている。

天正十一年癸未八月七日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之為重恩、押野(安曇郡)之内定納万疋之所可出置候、以此旨、可抽忠信者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡押野の地を宛行う事を約している。

天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度之忠信、誠以無比類候、因之日岐一跡出置候、弥可被抽戦功事肝要候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、日岐の旧跡を宛行っている。

天正十一年癸未八月十一日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶黒印状案には、「當所務依不作、於蔵納五十俵可令合力候、委曲草間肥前守可申候、為後日如此候、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、前述の日岐の旧跡が不作である事から蔵米の五十俵を合力し、委細にあっては草間肥前守が申すとも言っている。

天正十一年癸未十一月晦日、日岐丹波守宛、小笠原貞慶宛行状案には、「今度就被抽忠信、為重恩北山(安曇郡)卅貫文、日(?)日岐山(安曇郡)四拾貫文、大穴(安曇郡)卅貫文、堀之内(安曇郡)卅貫文、一日市場(安曇郡)卅貫文、本領吉方(安曇郡)七拾貫文、右合弐百卅貫文所進之候、弥於励戦功者、先手にて一所可申付候者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、日岐丹波守に、安曇郡内の各所、合わせて弐百卅貫文を宛行っている。長くなったが、紆余曲折を経て、本書状に書上げられた各所が丹波守の最終的な知行地となった。この内の「本領吉方七拾貫文」が該地の吉野に当たる。

居館の現況は…主郭はさっぱりと二枚の田地となっており、2郭は一般住宅とその敷地等となっている。平成元年(西暦1989年)には、県営ほ場整備事業豊科南部地区に伴う発掘調査が行われており、居館のものと推定される堀と土塁が検出されている。但し、従来から地表面に残っていた堀形や土塁の残滓と伝えられるものとは異なる位置から検出されており、この点については問題が生じている。

該地の「元屋敷」地籍に武士の居館跡が存在する事は以前から知られていたが長らくその主は不明のままであった。発掘調査結果報告書にも言及が無いので、既出の情報とはいえ改めてこの口コミに書き留めておく。

※安曇野ふるさとづくり応援団が発行する、「安曇野の原風景を巡るふるさとウォッチングマップ」、「No.17豊科吉野地区」に「あなどれない田んぼ」…として掲載がある。

※更級郡八幡の神官家、松田氏〜アプリの登録城、松田家館を参照して下さい。

※写真⑥、標柱の立つ場所が土塁の残滓と伝えられてきたが…発掘調査はこれに疑問を呈する結果となったようだ。

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