下畑下の城
下畑下の城([龍岡城 周辺城郭])
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下畑下の城の口コミ情報
2026年06月10日 内記がずりヾ(・ε・。)
下畑下の城は龍岡城の南南西約5.4km、千曲川西岸(左岸)、標高847.0mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根中段上、標高約831m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の国道141号からの比高は75m位でしょか。但し、山稜は段丘崖に面しており、連続する台地上からの比高となると10m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは車の捨て場所に悩むが西麓の農道からがベスト、主郭まではあっと言う間に辿り着く。
築城年代、築城者は不明です。中世〜戦国時代の顔がなかなか見えて来ない非常に難しい地域だ。
佐久平には中世に二つの大きな荘園が存在していた。一つは大井氏が惣地頭職であった大井庄、もう一つは伴野氏が惣地頭職であった伴野庄である。両氏は共に甲斐源氏加賀美氏流小笠原氏の当主、長清の子等を家祖としており、佐久郡への入部もほぼ同時期と考えられている。
該地は中世には佐久郡伴野庄を構成していた一村、畑物村であったようだが、一貫して伴野氏の差配する所であったとは言い難い面がある。文明八年(西暦1476年)には、在名を称する武士、畑物蔵人頭貞奉があった事が判っているが、文明十一年(西暦1479年)から大井、伴野の両氏は所領を巡って争うようになる。
「諏訪御符禮之古書」、文明十一年己亥御射山明年御頭定の条には、「一 右頭野澤郷(佐久郡伴野庄内)右馬助康致御符祝三貫三百三十三文使孫六伴野大井大乱此年八月廿四日大井興伴野合戰大井殿伴野へ生取河(阿)江木入道討死後大井殿佐久へ帰候野澤御教書祝同前代官掃部助清綱馬一疋栗毛孫六請取来候」とあり、八月廿四日、大井が伴野へ合戦を興し、大井殿(政朝)は生捕り、阿江木(相木)入道が討死し、後に大井殿は佐久へ帰されたと書いている。小笠原長清の子孫等は時代が下ると争いを始めた訳だ。
大井氏と伴野氏の対立は後々まで続く。佐久郡は長きに亘って騒乱していたとも言えるのだが、従ってそれぞれの勢力の及ぶ所にも変遷があるように思う。争いは次第に大井氏が伴野氏を圧迫する形で発展していくが、元より単純に千曲川を以て線引きが出来ない地方でもある。
縄張図を見ると6郭で構成されているが実際には4郭で十分だと思われる。各郭の面積は尾根幅を使い切って意外にも広く丁寧な普請が為されており、これ等が持つ削平具合、切岸の角度や造作には誰でも感心させられる事だろう。城郭遺構としては、中土塁を挟んだ二重堀切1条を含む総計で5条の堀切が山尾根を断ち切り、主郭南側山側背後には堀切に並走する形で長さのあるしっかりとした土塁が設けられている。信濃のお城の神が言うとおり、在地土豪層の要害がその発生であろう。北向きの縄張、千曲川を東に見下ろす占地である事から、伴野氏の一族や被官衆が、文明十一年から大永年間(西暦1521年〜1528年)まで続く大井氏との一連の対立、緊張の中で築城に及んだものと推測する。
下畑下の城の名称でピンと来た方も多いて思うんだけど、該当山稜は南北に長大であり、尾根続きの山頂部を中心に上の城が存在している。結果的に下の城は上の城の一城別郭の体を為しているんだけど、築城時期、築城主体が同一とは考え難いと思われるので口コミは別としたい。
※伴野庄〜在地土豪層等の知行地、数百貫文が当たり前の時代に、庄全体、伴野十二郷で八千貫文を叩き出していたというから全国でも有数の荘園であった事に間違いは無い。アプリの登録城、伴野城の印象だけで伴野氏を語ってはいけない。









