入沢長義の古宅(道薫屋敷)

入沢長義の古宅(道薫屋敷)([龍岡城  周辺城郭])

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入沢長義の古宅(道薫屋敷)の口コミ情報

2025年10月10日 内記かすりヾ(・ε・。)


入沢長義の古宅(道薫屋敷)は龍岡城の南方約2.3km、谷川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約758mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。

行き方はGoogleマップに「道薫館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐で大丈夫やろ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは入沢長義、その子、道薫(但し、長義の出家名である可能性を残す。)です。該地の佐久郡入沢村は、中世には平賀庄を構成していた一村であるが戦国時代以前の事が殆ど伝わらない。

「長野県町村誌」には「古宅址」として、「本村(入澤村)東にあり。該所は古昔は村落ありて地名を中村と云、今は畠となる。平坦にして少しく高し。里俗の傅に入澤長義の古宅と稱す、確乎たらず。其後道薫と云ふもの住居すと云ふ。先年金銅鐵の類を掘出せり、僻邑無智の人民該品を悉く亡失せり。其後三石清右衛門なる者、掘出せり品土焼の大瓶の中に小瓶あり其中に古金(タテ三寸、横二寸、厚さ五分、質佳)板形の二品あり、其外刀の鮫、木爪形の大小の鍔、金ぷくりん鍔、今に之を所有せり。」とある。明治時代の初頭、古宅跡からは、金銅鐵の類、古金が二枚、刀の鮫、木爪形の大小の鍔、金覆輪の鍔が出土したようだが、鐵の方は僻邑の人が無智だったので悉くを亡失してしまったと身も蓋もない書き方が為されている。

入沢氏は、正慶二年(西暦1333年)、北条時俊が入沢に住し、在名を取って入沢氏を称したと伝わるが、鎌倉時代に時俊を名乗る北条氏の人物は少なくとも五人が数えられる。生没年を考慮すると最も可能性が高いのが時房流の時俊だが、建武元年(西暦1334年)、同名とその子、貞俊は、北条氏を警戒する建武政権によって斬首に処せられた。但し、貞俊の次男もまた時俊を名乗ったと伝わっており、この貞俊の子が入沢に住した可能性を無下には否定出来ないだろう。

「諏訪御符禮之古書」、應仁三年(西暦1469年)己丑五月會の条には、「一 五月會入澤長助御符之禮三貫三百文使孫六頭役十五貫」、文明十四年(西暦1482年)壬寅明五年御頭の条には、「加頭入澤丙山頭本打替々被勤候長義前々御符お請取被申候か當年田口民部少輔長綱入澤惣領にて候由を被申請取候田口殿禮銭両度三貫三百孫六請取候頭役拾五貫」とある。應仁二年には、入澤長助が、文明十四年には、入澤長助の子と見られる長義が入澤にあった事が判るが、当年の入澤惣領は田口民部少輔長綱だとも書かれている。

入沢氏系図によれば、天文七年(西暦1538年)、同氏は経緯不明なるも入沢を退去し、村上氏に従って戸石城にあったとされる。天文十三年(西暦1544年)、十代当主、時広が上杉氏(関東管領家、山内上杉氏と考えられる。)へ密かに通じていた事が露見し越後へ落ち、その子、時吉は上野国群馬郡渋川へ逃れたとされる。未見だが、現在の群馬県渋川市入沢にはその事を記した石板が建っているらしく、同市の入沢の地名の興こりともされている。

屋敷の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。敷地範囲は明確ではなく、特に西辺を何処で取るのかが悩ましい。城郭遺構としては北辺を形成していたと考えられる土塁の存在が挙げられるが、正直、往時のものだと即断する事は到底出来ない代物だ。

「鹽山向嶽禪菴小年代記」には、「(天文)九(西暦1540年)庚子、…中略、四月上旬、板垣駿河守(信方)𣴎太守(武田)信虎命為大将、信州之佐久郡出張、始而臼田、入澤之両城、攻破数十城、築前山之城在陳、…下略、」とあり、天文九年四月上旬、武田信虎の命を受けて大将となった板垣駿河守信方が、臼田、入澤の両城を手始めに数十城(「勝山記」には三十六城とある。)を打ち破り、前山に城を築いて(実際は改修だ。)在陣したと書かれている。

入沢氏の事跡を語る際の定説ともなっている事だが、同氏は板垣勢の佐久郡攻めによって上州へと逐われたとするのが一般的な見方である。但し、前述した入沢氏系図を信ずるならば、この時点では同郡から既に退去していた事になる。

※「長野県町村誌」、「入澤村」の管轄沿革には、「古昔未詳。後田口氏の領知たり。天文(西暦1532年〜1555年)中武田晴信本郡(佐久郡)を侵す。田口長能滅び、…」とあり、入沢氏の事は書かれていない。

※「鹽山向嶽禪菴小年代記」〜謂わゆる「塩山年代記」の事、甲斐国内、塩山向嶽寺の住職が書き継いだ年代記である。記述は簡略だが日記を忠実に記録したと考えられており、その史料的価値が高い。

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