海瀬城
海瀬城([龍岡城 周辺城郭])
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海瀬城の口コミ情報
2025年10月09日 内記かすりヾ(・ε・。)
海瀬城は龍岡城の南南西約5.0km、千曲川東岸(右岸)、抜井川南岸(左岸)、標高約786mの河岸段丘台地上平場に立地したと伝承される何かです。北麓の抜井川からの比高は35m位でしょか。該地は佐久盆地の南端に位置し、西流した後、北流して千曲川に流れ込む、拭井川が創造した谷筋の関門の地に当たり、西方には千曲川に沿って佐久甲州道(近世の佐久往還である。)が南北に通っている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「佐久穂町生涯学習館 花の郷・茂来館」を目標に設定して下さい。この公共施設が概ねの該地であり、100台位は捨てられる駐車場も付いている。
該地の佐久郡海瀬村は、中世には伴野庄を構成していた一村あったようだが、「海瀬」の地名自体が近世以前の文書等に見られず、隣接する地域から何かを導き出す以外に当地の歴史を知る術は無い。ちなみに地名は、千曲川、温(抜)井川、余地川等の大小河川が氾流し、その水音が山沢に轟いていた事に由来するらしいがこれもどうなんだろう。それよりも太古には海だったと伝わる佐久盆地の海の瀬を形成していた場所であったと考える方が自然だと思われるのだが…
地味ながら交通の要衝でもある。海瀬から東行して抜井川沿いを進めば十石峠を越えて上野国緑野郡へと至り、抜井川に流れ込む余地川沿いを進めば余地峠を越えて上野国甘楽郡へと至る。こう書くと簡単だが、両道は関東山地を縦断する想像を絶する経路を道筋に選んでおり、前者は国道462号、後者は群馬県道・長野県道108号、下仁田佐久穂線の道筋にほぼ準じている。国道の方は群馬県側で酷道として悪名高く、県道(険道)の方は分断区間を有し車両通行は元から不可能、山道化し徒歩で登るしかない(県道としては放棄されたに等しい。)。ちなみに余地峠道は上州入りする武田勢が通った道(往時の道筋は県道よりも上段の山尾根上に付いていた。)でもある。
築城年代、築城者は不明です。今後も語られる事は無いだろう。「信濃の山城と館1、佐久編」に掲載があるが、該地は伝承から城跡とされている単なる場所に過ぎない。
敢えて強引に何かを語るとすれば、該地の東方、「館」には、木曽義仲の郎党、根井大彌太(大弥太郎、行親)、その子、楯六郎親忠が住していたと伝わる。抜井川の左岸段丘上には両名が経営した私牧が推測されており、周辺には牧を示唆する地名が数多く残されている。該地を城跡とするならば、この私牧に関係する何某かの城館であろうか。
該地は前述したとおり公共施設に変貌している。それ以前は何らかの耕作地、何れにせよ全てが平らげられてしまい、探索が土台無理な物件となっている。段丘崖に面している事もあって要害地形ではあるが、連続する台地上を断ち切る堀形でも認められなければ城域の判定すら不可能である。とっとと帰る事にしよう。
城廻りを始める以前、群馬県藤岡市から国道462号を使って十石峠(現在は立派な展望台が建っている。)を目指し、長野県南佐久郡佐久穂町へと抜けた事があったんだけど、正に帰れなくなるんじゃないかなて思わせてくれるような道のりだった。特に群馬県側の区間では国道のくせに対面通行が不可能な部分が多く、対向車が来たらどうしよかなとか不安になってたんだけど、そもそも論で他に車を見掛ける事が一切無かった。峠の名称は、川や山が迫り稲作に適さない上州の神流川沿いの山間部へ、峠を越えて日に十石(二十五俵)の佐久米が運び入れられていた事に由来する。上州ブルースの一つ、「十石馬子唄」はこの時の情景を唄ったものだ。
※十石峠道は近世の武州街道である。旧道を写真で見たけど怖くて歩けんわ…









