丹波屋敷館
丹波屋敷館([有賀城 周辺城郭])
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丹波屋敷館の口コミ情報
2025年03月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらは城友さんとアプリの登録城、有賀城に行って来たよ。諏訪地方じゃA4サイズのA5ランクの牛肉城、C3POでR2D2、時々はT-800、究極のところはRX-78だったりもする。でも今回口コミすんのは山麓の居館跡…要害の素晴らしさは周知さりてるんで敢えてこちらの方を…
丹波屋敷館は有賀城の北東約0.2km、諏訪湖南岸、新川南岸(左岸)、諏訪湖の南方山塊北方裾野、標高約817mの緩斜面上平場に立地した居館です。簡単に言えば有賀城の北東麓に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されている臨済宗妙心寺派の寺院、瑞雲山「江音寺」を目標に設定して下さい。該地はこの寺院の南東側の一帯であり車も当然捨てられる。ちなみに同寺の創建は慶長七年(西暦1602年)、高島藩藩主、諏訪頼水の筆頭家老、千野頼房が開基となっている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは室町期の有賀氏当主、有賀丹波守好照であろう。現地案内板には、「千野丹波守屋敷」とあり、慶長六年(西暦1601年)には、千野丹波守房清が居した事もあったようだが奇しくも両名の受領名は同一である。
有賀氏は諏訪氏の分流、神氏の一党、「神氏系図」によれば、大祝、諏訪信濃権守敦忠の舎弟、有光が、有賀次郎を称して鎌倉時代の初めに有賀郷に土着したとあり、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、有賀美濃守入道性存が諏訪勢三百余騎を統べて「大塔の古砦」の大手口に攻め寄せたと伝わる。戦国時代には小坂花岡の小坂氏、眞志野の胡桃沢氏等と共に下諏訪の西方衆を構成する一氏となった。
「神使御頭之日記」、天文十七年(西暦1548年)の条には、「此年七月十日ニ西之一族衆并矢嶋、花岡甲州江逆心故、諏方ニ乱入候、神長(守矢頼真)千野(靭負尉重清)殿計従河西上原江移候、同十九日ニ西方破悉放火候而、其日武田殿、小笠原殿、於勝筆(勝弦峠)一戦候而武田殿討勝、小笠原衆上兵共ニ千余人討死候、」とあり、「西之一族衆」として西方衆が登場する。
「守矢頼真書留」、天文十七年の条には、「此年西四郷ノ一族、矢嶋、花岡、七月十日ニ甲州江致逆心、同十九日ニ牢人候、神長ハ上原ノ城江十九日申刻ニ移候、神秘ノ皮籠計持候而、自余ハ悉捨候、」とあり、「西四郷ノ一族」として西方衆が登場する。
「高白斎記」、天文十七年の条には、「七月大、朔日甲戌、中略〜十一日甲申、諏訪之西方衆相替之由候間、申刻被出御馬、跡部越中守田屋御陣所、十三日薦馬進上申し候。十八日辛卯従大井ノ森被進御馬、翌十九日卯刻塩尻峠ニタテコモリ、小笠原長時責破リ数多被為討捕候、廿五日上原ヘ被納御馬、」とあり、「西方衆」が登場する。
上記各文書には、天文十七年七月の「塩尻峠の戦い」に際して、小笠原長時に同心して甲州に逆心した西方衆が名を変えてそれぞれに登場するが、肝心の有賀氏の事については直接書かれない。但し、「西四郷」とは、諏訪郡の有賀、小坂、花岡、眞志野の各郷の事であり、文中において同氏は西方衆として一纏めにされたと考えられる。何れにせよ、逆心した有賀氏が戦いの後に在地土豪として存続する事は無かったろう。
天文十八年(西暦1549年)三月八日、千野靭負尉宛、武田晴信宛行状には、「度々雖忠信候、諏方右衛門尉本領之事候間、返之候、然者為尾口郷替地、有賀之郷出之候、恐々謹言、」とあり、武田晴信は、千野靭負尉に、諏方右衛門尉の本領、諏訪郡尾口郷を返すに当たり、その替地として同郡有賀郷を宛行っている。以降、武田氏時代に有賀氏の旧跡を知行地としたのは千野氏(惣領家)であった。
居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、空地等となっている。城郭遺構は消滅、敷地範囲も明確ではないが雰囲気は十分、往時も段付きの平場であったろう。此処から眺める展望は素晴らしい。又、土留めの石積みが多く散見されるが、積み方自体はこの地域の耕作地ではよく見られるもの。やはり後世の改変とするべきであろう。
有賀城を訪ねる度に殆ど素通りしてたような物件だけど今回は真面目に探索してみた。理由は居館地内に立つ案内板を見留めたから。居館マニアのハートを撃ち抜く嬉しい配慮に暫し感動…その心意気にこの口コミを以て応える事にしよう。山城ブームの次は居館ブームが来ると信じてる…w
※該地の字地名は「丹波屋敷」である。
※武田氏時代の諏訪五十騎の内には有賀紀伊守の名が見られる。逆心したのは同名であろうか。又、天正十年(西暦1582年)の甲州征伐の際、武田勝頼に従って天目山で討死した者の内に有賀勝慶がある。
※写真①、②、背景のお寺さんが江音寺、同じ有賀城のリア攻めマップにスポット登録されている。