高島古城(高島城・茶臼山城・古城)

高島古城(高島城・茶臼山城・古城)([高島城  周辺城郭])

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高島古城(高島城・茶臼山城・古城)の口コミ情報

2025年02月20日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、天気が良いんで散歩がてらに高島城にでも行ってみようかの。が、生憎だがおいらが訪ねるのはアプリの登録城じゃなくて高島の古城の方…戦国時代に重要な役割を果たしたのはあくまでも古城、個人的な趣味趣向はこの高島城のお父さん城にあるのさ。

高島古城(高島城・茶臼山城・古城)は高島城の北東約1.2km、標高約845mの丘陵地上平場を中心に立地する要害です。南西麓の諏訪市立上諏訪中学校からの比高は50m位でしょか。該地の丘陵は茶臼山と呼ばれている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置が主郭である。車で城域内に進入可能だが捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築城年代、築城者は不明だが、諏訪氏の要害がその発生だと考えられている。

「守矢満賽書留」、文明十五年(西暦1483年)三月大 癸巳の条には、「同十九日、下宮(金刺)遠江守興春、落仁祝殿味方ニテ寄騎勢引率變百騎計、高嶋ヲハ興春手者討基置、上桑原武津迄焼證、高鳥屋小屋被座候、…」とある。概ねの文意は、下社の大祝、金刺遠江守興春が、上社の先の大祝、諏訪継満に味方し、寄騎百騎を引率して上社(惣領家)に攻め寄せ変事となった。高嶋は興春の手の者によって討ち置かれ、同名は、上桑原、武津まで焼討ち、高鳥屋小屋に張陣した…となる。高島が変事に際して真っ先に討ち置かれたのは、下社領の大和郷と境目を接していた事がその理由であろう。

「高白斎記」、天文十八年(西暦1549年)正月の条には、「正月朔日壬申、八日己卯 長坂方始テ高島へ移ラレ候、十三日甲申 高島ノ鍬立。」とある。諏訪氏を滅ぼした翌年、天文十二年(西暦1543年)には、修築した上原城を諏訪郡の拠点城とした武田氏であったが、筑摩郡経略を見越したのか更に西方の高島を新地に取り立てた。天文十七年(西暦1548年)六月の「塩尻峠の戦い」の翌年にも当たる訳だが、この際に砦規模の要害に過ぎない高島城が大改修を受けた事は確実である。普請は城下の町割りをも含む大規模なものであり、後には諏訪郡郡代(城代)として文中にある「長坂(大炊助虎房)」が留め置かれた。虎房は、天文十七年八月十一日、板垣彌次郎(信憲)の御目付として上原城在城を命ぜられているが、普請はこの虎房を中心に進められたのであろう。

天文二十年(西暦1551年)、武田勢によるアプリの登録城、小岩嶽城攻めは、宿城に放火したのみで諏訪郡高島に馬を返している。この頃には普請を終えていたと推測するが、交通の要衝故に御屋形様の逗留も頻繁であった筈だ。

「天正壬午の乱」に際しては、天正十一年(西暦1583年)に徳川氏の臣、柴田七九郎康忠が甲州奉行ながら高島城に入り城代となっている。徳川氏もその立地を重要視していた事に疑いは無い。

お城は改変著しく旧態を見ないが、そこかしこにその断片を探る事が出来る。丘陵とはいえ諏訪湖に面する側は崖地に近い急傾斜地であり要害性も兼ね備える。城域は広大、主郭は空地、一般住宅地、公民館等となり、縄張図における通称二の曲輪は茶臼山排水池にそのまま変貌している。遺構としては後世の改変との判別が難しいが、雛壇状に造成された帯郭状の腰郭が随所に確認出来る。ちなみに住宅地ではあるとはいえ、階段や坂道が多くて探索は意外にも大変…

最後に、お城関係の記述について最近気になる事を…

「武田氏が◯◯を城主とした。」みたいな文章を巷でよく見掛けるんだけど、同氏が家臣団や被官衆を城主に取り立てた事は一度たりとて無かった筈だ。少なくともおいらはそうした書状や文書を見た記憶が無い。武田氏が任せるのは城代や在城衆、在番衆の事であり城の主ではない。城主たるべきには城地が知行地内にある事が大前提、それだけ拝領しても負担が増すばかりで嬉しくもないだろう。欲するのはあくまで当人にとっての経済基盤である知行地であり、宛行状や安堵状にも城地等の事は一切書かれない。些細な事だと思うかもしれないが、特に地方史においては一族の歴史や個人の事績等の判断材料として大きな禍根を残す。言葉選びに慎重な姿勢が求められる部分だと思う。

※主郭に建っていた県営桜ヶ丘団地は全棟が取り壊され現在は更地となっている。ちなみに推定堀跡内には石柱が建ち、主郭には説明板が立っている。

※城下の町割〜麓には、「武田小路」、「根小屋小路」の地名を残す。

※城代〜武田氏においては郡代の意味合いが大きい。同氏が置いた各城代は錚々たる顔ぶれだ。

※板垣彌次郎(信憲)〜有名な板垣駿河守信方の嫡男である。父の死後に家督と諏訪郡郡代を継いだが、後に不行跡を問責され押し込められた。

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