大熊城
大熊城([高島城 周辺城郭])
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大熊城の口コミ情報
2025年11月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
大熊城(千野城)は高島城の南方約3.9km、諏訪湖の湖南地域、南方山塊から続く標高約813mの丘陵地上平場を中心に立地する要害です。諏訪湖湖面上からの比高は55m位でしょか。ちなみに城域は中央自動車道の建設に伴って大きく分断されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は乗り入れて捨てる事も出来るが私有地である。
築城年代は不明、築城者は千野氏です。同氏は諏訪氏系図を信ずるならば、諏訪社大祝、有員の系統、諏訪次郎敦貞の二男、諏訪敦真の子、太夫光親が千野を称した事に始まるとされる。諏訪氏の最も古い分流にして神氏の一党、諏訪社上社の有力社人として、古くは諏訪郡十郷の内の一郷に数えられた茅野郷に住した。該地の諏訪郡大熊に同氏が入部した時期や経緯にあっては不明だが、以下の文書から大熊城の存在が確認出来る。
「守矢満實書留」、文明十五年(西暦1483年)の条には、「彼悪党者、下宮遠江守(金刺興春)塩尻赤⬜︎ 祢と申仁、寄類十二人被越被焼、⬜︎⬜︎⬜︎ 乍其⬜︎⬜︎死去、因文明十五年三月十九日、上宮湯腰⬜︎⬜︎⬜︎上宮へ⬜︎討取候、遠江守クヒヲ大熊城ニ二夜懸置候、御神力眼前候、」とあり、文中には大熊城が登場する。
長文なので割愛したが、上記文書は、諏訪社下社大祝、金刺遠江守興春が、下位した前の上社大祝、諏訪継満を援けて上社に攻め寄せ、諏訪郡上桑原、武津を焼き、鳥屋小屋に張陣したが、上社の、松⬜︎奉初、矢崎肥前守(政継)、神平(守矢継實)、神二郎(守矢政實)、千野兄弟、有賀兄弟、小坂兄弟、矢崎對馬守、福嶋父子三騎、計十七騎がこれに馳せ向かい、上宮の湯腰において合戦に及び、下宮殿(金刺興春)兄弟三騎、舅對馬守、大和兄弟四騎、武居六騎、佐久斃井殿、足白、野臥⬜︎、十三人が討死し、興春の首は大熊城に二夜の間、懸置かれたと書いている。合戦の場、上宮の湯腰は、現在の上諏訪温泉付近の事と思われるが、討死した金刺興春の首は大熊城に移されて二晩に亘って晒された事になる。
城域は前述したとおり中央自動車道に大きく分断され、後世に耕作地としての改変もある訳だが、城跡としての形状はよく残っている方ではないだろうか。信濃のお城の神が描いた縄張図を見ると6郭で構成されており、東側斜面には幾つかの腰郭が付いている。各郭はそのまま畑地に変貌している感があり、探索自体もそれなりに楽しめると思う。城郭遺構としては、堀切、竪堀、土塁、桝形等が確認出来るが、土塁を除けば風景に埋没してしまい全てがファジー、冷静に見れば横堀なんて相当に立派なのだが…ちなみに東側斜面、最下段の平場は御頭御社宮司社の旧地である。
前記した「守矢満實書留」の条は、謂わゆる諏訪社の内訌、「文明の内訌」における一事象を記したものである。諏訪社はこの時期、上社の大祝家と惣領家が争い、下位した大祝家に与同する下社が上社と直接争う等、周辺諸勢力を巻き込んで騒乱した。下社の社殿と一帯が上社勢によって焼かれたのは、金刺興春の討死後、文明十五年三月二十一日の事である。以降、下社は上社に対して常に劣勢となり、永正十五年(西暦1518年)十二月、興春の跡を嗣いだ下社大祝、金刺昌春は、萩倉要害を諏訪頼満に自落させられ甲斐へと落ち延び、下社大祝家としての金刺氏は断絶、没落してしまった。
※萩倉要害を諏訪頼満に自落させられ〜永正十五年十一月廿三日、御奉行所宛、諏訪頼満注進状案の余白には、「此年、下宮遠江守金刺昌春、萩倉要害自落而、一類面々家風悉断絶畢、」とある。
※萩倉要害〜花岡城のリア攻めマップにある、萩倉砦、上の城、下の城の事である。
2022年05月11日 ️…
大熊城は武田氏の諏訪侵攻⚔の際に落城🔥しています。中央自動車道の開通により一部湮滅しているものの、桝形と主郭を囲む堀凹と土塁凸は確認できます😚
特に主郭と中央道際の4郭を隔てる堀凹は往時の深さ7m😳あったそうで、地中に眠る💤部分を掘り起こしてあげたくなります。土塁凸上にある千野丹波守房清公を祀った石祠に手を合わせる🙏のをお忘れなく😌
〜以下、現地解説板より〜
大熊城
大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483年)にその名がみられる。
諏訪神社上社大祝側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺 氏との攻防の場となった。
天文11年 (1542年)、武田信玄の侵攻によって落城 し、天文17年頃破却された。
城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6か所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。
主郭の南端には 長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
昭和48年に行われた発掘調査では 掘・建物跡・土橋が発見され、築城の様 子が明らかになった。 また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の 居館跡とみられる建物跡も発見された。
大熊区・諏訪市教育委員会









