三沢氏居館
三沢氏居館([花岡城 周辺城郭])
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三沢氏居館の口コミ情報
2025年11月03日 内記かすりヾ(・ε・。)
三沢氏居館は花岡城の西南西約2.4km、天竜川西岸(右岸)、待張川北岸(左岸)、標高約792mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。同じ花岡城のリア攻めマップにある高尾山城は、この居館の主、三沢氏の築城だと推測されている。
行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近に目標となるものがありまてん…とりまGoogleマップに位置登録がある「岡谷市立岡谷西部中学校」が当座の目標にはなるだろう。車はそこら辺に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり三沢氏です。同氏については高尾山城の口コミも併せて参照して下さい。三沢氏は諏訪社下社の有力社人でもあった訳だがその裏付けとなる以下の書状が残されている。
天正六年(西暦1578年)二月廿八日、三澤平太宛、武田勝頼朱印状には、「高梨(高井郡)之内原郷、同堤郷、同櫻澤郷、小布施半郷、聖中条郷、長沼(水内郡)内村山、小県内塩田、塩崎(更級郡)内邊久部、従右郷中集造営銭、下諏方大鳥居造立之處、累年令難渋未済之由、大自由之至也、急度加催促、如前々造宮銭可請取之旨、所被仰下也、仍如件、」とあり、武田勝頼は、三澤平太に、諏訪社下社の大鳥居の造立のための銭が未済となっている事からこれに催促を加えるよう申し付けている。平太は下社側を代表する者として、信濃国内の各郡諸郷の負担を催促出来る立場にあった事が判る。
「信濃の山城と館6、諏訪・下伊那編」に掲載がある。著述の中には、「高尾山城東南山麓の小字大島が居館の地と伝承される。大島の場所は待張川に沿った舟形の沢状の窪地で要害の地とはほど遠い地形で、現在、田、畑、宅地になっている。…中略、三沢氏の居館は上記の如く大島にあり、小字今見堂(川岸小学校南西)のあたりに根小屋があったと伝えている。…後略、」とある。
上記著述にある、「小字今見堂(川岸小学校南西)のあたりに根小屋」の根小屋をどう捉えるのかが問題となる。居館地と根小屋がそれぞれ離れた場所に存在していた事になるからだ。想像するに根小屋とは高尾山城の在番衆の屋敷地であろうか。だとすれば居館地とは別に存在していたとしても何ら不思議な事ではないように思う。その裏付けになるものとして、現在の新倉集落は、時期不明なるも今見堂から風を避けて退転してきたとも伝わっている。従って三沢氏の居館地だけを問題とするならば「小字大島」に的を絞って探索すればよい筈だ。
居館の現況は…畑地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。待張川を自然の水堀としていた可能性は十分に考えられるが、周囲より一段低い段の付いた窪地である事は問題である。或いはこの地形自体が往時の川筋なのかもしれない。要害性に乏しく河川の氾濫等の影響を受け易い占地にはどうしても疑問を抱いてしまう。信濃のお城の神は居館敷地範囲すら示していないが、「小字大島」の範囲も含めて、北側へ向けてかなりの広がりがあったのではないだろうか。何れにせよ後世の改変が大きく城郭遺構を見出せる筈もなく探索自体が徒労に終わる。
…戦国時代等の埋蔵金伝承て全国各地に残っていると思うんだけど、存外、眉唾な話として一笑に付す事も出来ないもんだと考える。黄金、小判がざっくざく…みたいなのを想像するから期待も常に裏切られるんだけど、地中に埋められた素焼きの瓶から大量の古銭が出土した事例は一つや二つではない筈だ。今回、紹介した居館の主、三沢氏の要害と推測される高尾山城にもそんな埋蔵金伝承が残されており、地元の古老の話によれば、「城の上から見て、三つ目のうこぎ塚に(三沢)対馬守の軍用金が埋めてある。そのうこぎ塚がどこか分からない。」て事らしい…何言ってんだかよく解んないんだけど、一攫千金を夢見るお宝ハンターはスコップ片手に探索するのもいいさ。但し、ユンボとか持ち込むのだけは止めてくり。
※「…累年令難渋未済之由、大自由之至也、…」〜武田氏は、新府城の築城によって領内が疲弊したとされているが、それ以前から既に「難渋」していた事に疑いは無いだろう。
※写真⑧、背景に写る独立山稜が文中にある高尾山城、お宝がこのお山に埋まっているかも…ちなみにかずぽん、登城中に血眼になって塚らしきものを探したけど判る筈も無かった。が〜んっ!









