下生野の中海道館
下生野の中海道館([青柳城 周辺城郭])
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下生野の中海道館の口コミ情報
2026年07月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
下生野の中海道館は青柳城の西南西約10.3km、犀川東岸(右岸)、標高約502mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して居館地を特定しよう。付近に目標となるものがありまてん…車はそこら辺に適当捨てられる。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。単純に位置関係からすれば、中世に日岐郷の六村を知行したと伝わる仁科氏の分流、丸山氏に関係する居館であろうか。
生野は戦国時代に丸山筑前守政友が居館した小立野を挟んで南北に上下に分かれている。北流する犀川は生坂の谷筋に入ると蛇行を繰り返すが、その蛇行点へ向けて河岸段丘台地がそれぞれに張り出しており、山際から連なる緩斜面の各台地上には古くから集落が形成されてきた。
該地の下生野には「大道上」の小字が残っている。「大道」を含む地名は、全国的にも古代官道の道筋上によく見られる事から、犀川筋の生坂谷を通って善光寺平へと抜けるその一つが生野を南北に通っていた…等と推測しても構わない筈だ。ちなみにこれも個人的な推測に過ぎないのだが、同様の道筋は中世から戦国時代にも存在したと考えられ、ある一時期において、特に武田氏によって重要視されていたように思う。同氏の更級郡における拠点城、アプリの登録城、牧之島城の立地は山地に過ぎると以前から疑問を抱いていたのだが、今では同城は川中島へと出張する武田勢が人数を整える宿城でもあったと考えている。多くの人が不審を抱く、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」の際に同勢が茶臼山に張陣したという話もこうした推測を基に考えれば何ら不思議な事ではない。筑摩郡からの通行を図る上で、犀川以南なら横道を通って何処へでも抜けられる交通の要衝を選んだ結果が、武田氏が牧之島城の前身、牧城を取り立てた理由に他ならないと考えている。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「いくの々(生野)分」には、二郎左衛門殿 茶三袋 同宗助殿 ちゃ三つ 同善兵衛殿 茶三つ 同市の助殿 茶二つ 与左衛門殿 ちゃ二つ 宮内助殿 茶二つ 与五衞門殿 茶二つ あらいとの 茶二つ 中村殿 茶二つ たけそう(竹惣)の内ぬいさへもん殿 ちゃ二つ 同所弥太郎殿 ちゃ二つ」とあり、生野には地侍クラスの武士、多数があった事が判るが、根本的にその姓さえ不明であり、上生野、下生野のどちらに住していたのかさえ判らず、居館の主を特定する手掛かりには到底成り得ない。
居館の現況は…畑地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は、「中海道(中垣内)」の小字の内、屋号、「イタヤ」の一般住宅の建つ場所を中心に居館地を推定しているが、特に根拠としたものも無いようだしそのままだと少し狭過ぎるように思う。実際には、西側、南側、北側に大きいのではないだろうか。現地説明板はこれと全く重複しない「竹のはな(館の鼻=館の端)」に立っているが、館の端である以上、この場所を敷地範囲に含んでもよいと考える。但し、該地は開田や大火等によって地割り自体が変わっている上に城郭遺構は完全消滅、往時を想像する手立てが殆ど無いに等しい。推定居館地の東側には江戸時代の郷倉跡、北東側には屋号、「北屋敷」の一般住宅が建ち(小名は「北がいと」だ。)、正確な位置は不明だが、上段には「狐田」の小名が残っているんだそう。ちなみに付近には古くから犀川の渡し場が設けられていたそうで、居館地が番所の役目を兼ねていた事に間違いは無いだろう。
少し犀川に寄り過ぎかなとも思うんだけど、氾濫の危険性は誰にも考慮されなかったんだろうか。同川との比高差は殆ど無く、推定居館地の西側には生坂ダム建設に伴う治水事業によって東電が造成した巨大な堤防が迫っている。ちなみにこの堤防を見て思わず土塁を想像してしまうようなめぐら〜は家族のためにも早めに病院に行ってくり。









