小立野の中海道館

小立野の中海道館([青柳城  周辺城郭])

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小立野の中海道館の口コミ情報

2026年06月02日 内記かずりヾ(・ε・。)


小立野の中海道館は青柳城の西南西約10.2km、犀川東岸(右岸)、標高約527mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに「丸山筑前守政友居館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは丸山筑前守政友です。丸山氏は、仁科盛忠の舎弟、盛光が文和二年(西暦1353年)頃に筑摩郡の日岐六郷(村)を知行し丸山に居館、在名を取って称したのがその始まりなんだそう。その後、盛衡、盛恒、盛長と続くが、盛長に男子無く、明応三年(西暦1494年)、仁科明盛の二男、将監盛慶が養嗣子となり跡を継いだらしい。実系は何れにせよ仁科氏の分流である。

丸山筑前守政友は後に肥後守を名乗った将監盛慶の三男であり、小立野に居館し丸山氏の家老職を務めたが、天文十八年(西暦1549年)、筑摩郡小俣の筑前屋敷付近に張陣して武田勢と戦い、小幡孫次郎が為に討ち取られたと云われている。大永元年(西暦1521年)には、盛慶が筑摩郡神戸に長松寺を中興し、神戸の将監屋敷に同名の三男、肥後守盛直(貞清)が居館したとも伝わる事から、神戸に隣接する小俣の筑前屋敷とは政友の別の屋敷地であったのであろう。小笠原氏の下で本貫地以外の知行地を有していたとも言える。

「生坂村誌」には、「中野山城周辺の地名に城峯・城下・じんが(陣側)があり、尾根続きの上に「新ノ城」と呼ばれる峰があるが、遺構は無い。西側下の平地には「中がいと」の居館があり、東斜面下にくるみぞう城下の地名があり、番兵の屋敷と伝える。」とあり、此処に書かれる「中がいと」の居館が小立野の中海道館だ。付近には、「御竹薮」、「竹の下」、「堀畑」、堀ばた(端)」、西側下段には、「倉屋敷」、「町屋敷」等の小名が残り、北辺の空堀に面する赤羽さん宅の屋号はずばり「堀」である。

居館の現況は…田地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。居館地は長野県道276号、下生野明科線によって東西に分断されているが、旧道の方は居館地の西辺下段、犀川沿いを通っている。城郭遺構としては南辺と北辺の空堀の部分が用水路として残り、東辺は戦後まで堀形が残っていた舗装農道、西辺は崖地に面しており、従ってその敷地範囲は明確だ。全体的には開田等(掘り下げられている。)によって往時を想像し難い物件だが、狂気の生坂村教育委員会によって居館地とこれに関係する説明板が3箇所に立っている(高札場跡と十王堂跡の説明板を含めればごく狭い範囲に高い密度で集中している。)。

生坂村教育委員会をリスペクトしよう。彼等の仕事ぶりは本当に凄まじい。観光協会さんとタッグを組んだであろうその成果、「生坂村ガイドマップ」と「生涯学習ガイドマップわが生坂」がネットでダウンロード出来るので参考までに…特に後者は普通に学習させる姿勢が全く感じられない入魂(変態)の一作だ。この点については自治体が小さい事が幸いしているて思うさ。

※天文十八年(西暦1549年)、筑摩郡小俣の筑前屋敷付近に張陣して武田勢と戦い〜前年の十月四日に始まった、埴原城のリア攻めマップにある小屋城(村井城)の普請を牽制する戦いであろうか、史料には現れない。

※「中がいと」〜現在は「中海道」の文字が当てられているが、本来は中世の居館跡等を示す「中垣内」の筈…

※普通に学習させる気が全く感じられない入魂(変態)の一作〜たぶん世捨て人以外には全制覇が不可能、遭難等の危険も当然ある。

※写真①、電柱に隠れちゃってるけど背景に写る山稜が同じ青柳城のリア攻めマップにある中野山城だ。

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