中村城(城峰・天狗山)
中村城(城峰・天狗山)([小岩嶽城 周辺城郭])
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中村城(城峰・天狗山)の口コミ情報
2026年05月29日 内記御手杵ヾ(・ε・。)
中村城(城峰・天狗山)は小岩嶽城の東北東約8.3km、犀川西岸(左岸)、高瀬川東岸(左岸)、両川の合流点から北方へ連なる山脈中の一山、標高621mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。東麓の国道19号からの比高は100m位でしょか。該当山稜の北面直下には東西に寺沢が流れて谷筋を形成しており、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある神谷の物見との間を隔てている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「大己神社」の石灯篭前に捨てられる。リア攻めマップの国土地理院地図には城地を貫通する林道が描かれているのでこれを参照してから登ろう。ちなみに大己神社はかつての大穴社であり、創建年不明なるも江戸時代には中村、明治時代には陸郷村の村社であった。
築城年代、築城者は不明です。同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある中村の殿田館の主が築城者として有力視されるが館主は不明であるとしか言い様が無い。
「長野県町村誌」には「古城跡」として、「本村(陸郷村)の未(南西)の方中村にあり。岑方一町(約109m)程平なり。遺縁不詳。」とある。
該地は時代不明なるも安曇郡大穴村から分村した中村の内であるが、中世から戦国時代にかけては「大穴庄」、「大穴之郷」としか呼ばれず、庄内の細かな郷村の実態が不明であり、中村城が築城された時代に中村が存在したのかさえ不明である。武田氏時代には在名を称する「中村殿」が隣村の生野にあった事は確実だが、同時代にこの類いの砦は既に不必要、個人的には、室町時代の中期頃、仁科氏、もしくはその一族、被官衆による普請だと考えている。
尾根筋を登ってると堀切なんかがしっかりと確認出来たりなんかして期待も膨らむとは思うんだけど、主郭に到着した途端にやる気が失せる珍しい物件だ。後世に軽自動車なら通れそうなぐらいの幅員のある林道によって城地の南縁部が大きく削られている他、かつては主郭部にも山道の一部が通っていたらしく、これ等が中世の砦としての存在感を損ねている事は否めない。又、縄張図を見ると総計で6条の堀切が描かれていたりもするんだけど、大体にしてほんまなんかこり…確実にそうだと言えるのはこの内の4条のみ、しかもまともに堀形を保っているのは3条に限定さりる。主郭に付くとされる土塁すら怪しい…縄張に過剰な評価が為されていると思うのはおいらだけじゃあるまいて。ちなみに城域内の大半は藪に覆われている。
犀川沿いの周辺地域は、中世の史料等が極端に少ない地域でもあり調べていると困惑させられる。「長野県町村誌」の各村の管轄沿革を見ても「古事不詳」であり、戦国時代からの沿革がいきなり始まる。又、その多くは伝承等を元に話が進められ、はっきりとした事跡は近世に入ってからの事に限られる。
※天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、外垣五間を負担する「大穴之郷」として、同郷と小宮郷の名が見られ、前者には代官の丸山と道珠、但馬守と二左右衛門尉が、後者には代官の惣右衛門尉があった事が判る。かつての大穴庄は実態を失い二つの郷に分かれたとも言えるのだろうが肝心の郷域にあっては不明である。
※城地を貫通する林道をそのまま西行すると、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある、渋田見城や田ノ入城へと辿り着く。中世に山越えの道が存在していたのかは不明だが、在地土豪層の砦ではなく、仁科氏に関係する道押さえの砦ではなかったろうか。
※写真⑤は主郭を撮影した物っす…やる気を失くすでしょ。ちなみに現在の城地からの展望は無いに等しい。
※写真⑧は登城中に路端の石仏達を撮影した物っす。摩耗し過ぎて何なのかは知らんけど。









