白駒城(城熊城・白熊城)
白駒城(城熊城・白熊城)([小岩嶽城 周辺城郭])
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白駒城(城熊城・白熊城)の口コミ情報
2026年05月25日 内記御手杵ヾ(・ε・。)
白駒(城熊城・白熊城)は小岩嶽城の北東約9.6km、高瀬川東岸(左岸)、犀川と高瀬川の合流点から北方へ連なる山脈中の一山、標高801mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の「相道焼 新窯元」からの比高は180m位でしょか。城地は安曇郡池田郷と犀川流域の筑摩郡日岐郷とを結ぶ峠道上にあり、白駒城の東方約0.5kmの位置には登波離橋の険難を控えている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車を捨てられるスペースも何箇所かにある。設置されている鉄製の梯子を登れば城域内だ。
築城年代、築城者は不明であり、この点については色々と問題がある。北安曇郡池田町では最も古い城館と考えられており、その発生は鎌倉時代にまで遡るとも云われている。
「信府統記」には、「…前略、(源)義重ノ息ノ内一人宇留賀殿ト称ス又犬養ノ家へ養子トナリシ人アリ、即此宇留賀殿二ヤ別人二ヤ俄二シレス手塚太郎カ子ヲ三郎兵衛ト云フ白駒ト云フ所ノ城ニ置ケリ…後略、」とあり、意味がよく解らないが、木曽義仲の郎党、手塚太郎の子、三郎兵衛が城主であったと言いたいようだ。ちなみに義重は木曽義仲の次男と伝わる力寿丸の事だそうだが実在さえ疑わしい人物である。
「長野県町村誌」には、「本村(池田町村)より東卅二町(約3.5km)の距離に方り、池田山白駒ノ城址、東西十四間(約25.5m)南北八間(約14.5m)なるあり。城主詳ならずと雖も袖山上野介の守る所なりと、里人の口碑に傅ふ。其年暦に至りては更に知るべきなし。」とあり、袖山上野介なる者が守る所としている。ちなみに上野介は樋口行時の事らしく、義仲四天王の一人、樋口次郎兼光の子と云われているが実在さえ確認出来ない。
個人的には、その発生はともかく、時代不明なるも仁科氏やその一族、丸山氏等に関係する要害であったと考えている。
按天正十(西暦1582年)壬午年也、八月九日、塔原(海野)三河守、犬飼半左衛門(久知)宛、小笠原貞慶書状案には、「…前略、然バ古厩、渋田見談合之子細候而、今夜穂高ニ陣取由、只今申越候、其表取出之儀心得申候、乍去、西口之一左右次第、可被分別候、将亦、其もと悉令放火由、口惜次第候、…後略、」とあり、小笠原貞慶は、青柳城のリア攻めマップにある日岐城に攻め寄せる、古厩、渋田見(何れも仁科氏の分流である。)が、戦に先立ち穂高に陣取し、塔原三河守と犬飼半左衛門の指図によって「西口」の悉くに分別無く放火した事を口惜しき次第だと言っている。推測するに、この「西口」とは城地が扼する白駒口ではなかったろうか。
城域内は後世に相道寺焼のための土採り等によって少なからぬ改変を受けている他、舗装林道の造成によって城地が大きく分断されている可能性を残す。縄張図を見ると5郭で構成されており、城郭遺構としては主郭からの南東尾根と北西尾根を断ち切る数条の堀切が確認出来る。但し、この堀切、1条を除けば尾根の乗り越し等としか考えられない…特に縄張図における通称4郭(馬場)の南側に設けられたものは切通しであろう。往時の造作とするならばあくまでも虎口にしか他ならないとも考える。又、縄張図には他にも虎口、枡形等の遺構の描き込みがあるが、現地に赴けば誰でもその判定には悩む筈…後世、よく人の入ったお山である事を探索の大前提にする必要があると思う。
吉野の桜は全国的に有名だけど、城地の東南東約1.2kmの位置にある「陸郷桜仙峡」は、「西の吉野 東の陸郷」…て呼ばれる程の山桜の名所、時期ともなれば数千本の桜が咲き乱れる景観は、小鳥達がついばみ広げた「小鳥が咲かせた桜の里」として一部の人達の間では大人気だ。おいらは今年も時期を失してしまったんだけど、春先に桜仙峡を見に来たついでに白駒城を訪ねるのがよいて思うさ。
※写真⑧は通称5郭を撮影した物っす。此処には「馬入」、「馬道」の小名を残しており、通称4郭の「馬場」へと通じる。一応、郭とされているが本来の峠道ではなかったろうか。









