中島城
中島城([小岩嶽城 周辺城郭])
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中島城の口コミ情報
2026年05月19日 内記御手杵ヾ(・ε・。)
中島城は小岩嶽城の北北東約9.8km、高瀬川東岸(左岸)、犀川と高瀬川の合流点から北方へ連なる山脈中の一山、標高789.7mの山稜山頂から南方へ伸びる尾根上段上、標高約771mの小ピークに立地する砦です。西麓の中島集落中心部からの比高は130m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「中島三社」を目標に設定して下さい。この神社の南側を通る林道をそのまま進んで山中へと入る。後はリア攻めマップを参照して城地を特定しよう。送電線の鉄塔が目印になり、城山の東面直下には駐車出来る空地もある。登り始めれば3分弱で城域内だ。
築城年代、築城者は不明です。該地の安曇郡中島は、江戸時代には松本藩領池田組に属していた一村だが、中世には同郡矢原庄内池田郷を構成する一村であったろう。同郷は「仁科之内」であり、築城者には仁科氏の一族、もしくは被官衆が推測出来るが、永正元年(西暦1504年)から大永元年(西暦1521年)まで、小笠原氏と同族である、島立右近大夫貞永(深志城、後の松本城の築城者である。)、同七蔵貞知等が知行したとも伝わっておりはっきりとさせる事が難しい。
「長野県町村誌」には、「中島耕地の卯(東)の方、字城山と云にあり。東西六間(約10.9m)、南北十五間(約27.3m)の平地にて、當時秋葉の小社あり。外に堀等の形もなし。古昔中島内膳と云者爰に住すとかや。里老言傅にて事情不詳。」とあり、「古城墟」として簡易な絵図が添付されている。「池田町誌」では、中島内膳を池田氏の分流と推測しているが、同氏自体が仁科氏の分流と推測されている。
「日本歴史大辞典」には、尾張?蟹江?の城主、小笠原貞興の曾孫四郎左衛門尉は、父である豊後守宗近が「信濃中島」を知領した事から中島氏を称した…とあるらしい。又、四郎左衛門尉は、深志城城主?、小笠原長時の家中であったが、大永年中(西暦1521年〜1528年)、病のために京に上って風流を友とした…とあるんだそう。
「信濃池田町史話」には、「中島城は池田殿の家臣中島龍弥国任という人が池田殿の命により築いたと言われています。」とあり、四代の内膳宗忠、五代の太郎左衛門宗徳の名が伝えられているが出典が不明だ。
砦は殆ど単郭と言ってよい縄張だが別に帯郭状の立派な腰郭を持つとも言われている。但し、この腰郭、城郭遺構ではないだろう。試しに主郭からの南東尾根と西尾根を下りてみたのだが、両尾根には尾根筋に並走する形で道跡が付いている。この道は何処へ通じている訳でもないのだが、推測するに本来は主郭の北面下段、即ち、腰郭状となっている部分に繋がるものではなかったろうか。腰郭を設けるよりは主郭の切岸のままであった方が遥かに有効な部分であったとも考える。ちなみに結構な藪城、夏場の訪問は悲惨な結果に終わるだろう。
仁科氏関連の事跡は、「仁科氏系譜」に併記された附伝や、各種伝承等に頼っている事が多く、裏付けが取れず信憑性に欠けるものが殆どだ。今回の口コミで紹介した中島氏等に関する史料もあくまでも民間伝承等がベースであろうが、書かなければ想像する事すら出来ないが故に敢えて列挙してみた。
※町村誌に添付された簡易過ぎる絵図を見ると単郭の砦である。縄張図における通称2郭の存在すら怪しい。









