伝星野城
伝星野城([小岩嶽城 周辺城郭])
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伝星野城の口コミ情報
2025年08月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
伝星野城は小岩嶽城の北東約5.4km、高瀬川西岸(右岸)、乳川東岸(左岸)、標高約574mの平野部平場に立地したと伝わる居館です。該地の周辺は南流する大小河川が水を集める場所であり、謂わゆる安曇野の大複合扇状地の扇央部に位置している。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「細野神社(元は諏訪社だ。)」を目標に設定して下さい。この神社の東側の一帯が星野城の旧地と伝わり車はそこら辺に捨てられる。
「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に未掲載の物件であり、「松川村誌」に僅かな記述があるのみである。ちなみにネットで検索しても情報は一切ヒットしない。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは星野氏です。同氏は「仁科氏系譜」の附伝にしか登場しない。これによれば、戦国時代の仁科氏当主、弾正少弼盛能の二男にして修理亮盛康の舎弟、盛道が、安曇郡松川郷内細野の星野城城主とあり、同名は初め孫一郎、後には星野内膳を名乗ったらしい。又、永禄四(西暦1561年)辛酉歳九月十日、川中島において討死したとも。ちなみに地名が見当たらない「星野」とは「細野」の事であろう。
天正五年(西暦1577年)九月五日、等々力次右衛門、細野甚四郎宛、仁科盛信書状には、「今度越州境、遠近敵城迄、為穏便遂案内、加之彼之城主之行、格法密見分条、数微細注進、無比類働感悦之至、尤掌握之所何如之哉、弥向後走舞、可抽忠儀者也、謹言、」とあり、仁科盛信は、越後境における敵城の城主の格法を密かに見極め、詳細を注進した、等々力次右衛門、細野甚四郎の忠義を褒している。宛名人の一人、細野甚四郎とは星野氏の者であろうか。
居館の現況は…完全無欠の田地となっており居館敷地範囲すら判らない。付近の道形や用水路に何かを求める事も出来ず、探索自体が不毛な作業だ。圃場整備事業によって城郭遺構は完全消滅、往時を想像する手立てすら無い。60m四方の単郭方形の縄張であろうか。
天正六年(西暦1578年)戉寅の「下諏方春穐宮両宮御造宮帳」には、「一 春秋両宮瑞籬拾間外籬十三間之造宮 矢原庄 矢原 白金 細萱 柏原 細野 池田 正科 都合十貮貫四百文 手執、小祝右外 小祝 小松庄左衛門尉 取手 大祝」とあり、当時、該地の細野は安曇郡矢原庄を構成する一郷であった事が判り、正保元年(西暦1644年)から作成が始まった「正保国絵図」によれば、往時の高瀬川が二股に別れて形成された中洲の内にあったらしい。古くは平安時代末期の名僧、西行法師が、「信濃なる有明山を西にみて心細野の道をいそぎぬ」の一句を詠んでおり、句中にもあるように標高2268.3mの信濃富士、有明山を真西に捉えている。
※「松川村誌」に僅かな記述があるのみである〜伝承地としての位置だけははっきりとしている。
※西行法師〜御坊が歩んだ道筋は高瀬川の右岸地域を進む往古の官道に比定出来る筈だ。穂高から北行し貝梅で穂高川を渡り更に北行すれば細野へと至る。先を急いだのだから寂しい場所だったのだろう。