丸山の城(中山城・細窪の城)
丸山の城(中山城・細窪の城)([殿島城 周辺城郭])
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丸山の城(中山城・細窪の城)の口コミ情報
2025年08月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山の城(中山城・細窪の城)は殿島城の西北西約2.3km、大田切川北岸(左岸)、天竜川西岸(右岸)、標高約669mの河岸段丘台地東縁上平場に立地する居館城です。東麓のJR飯田線の下島駅からの比高は45m位でしょか。該地は第二河岸段丘面に当たり、南側には「南細窪」、北側には「細窪」て呼ばれる、台地縁部を南北に分断する谷様の窪地形が形成されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「タカノ 下島工場」を目標に設定して下さい。舗装道路を挟んで北東側に見える墓地の場所が中山城の主郭だ。ちなみにこの工場から続く台地の突端部が別称にある細窪の城に当たるらしい。名称は信濃のお城の神に準じたが、この事を鑑みれば、丸山の城とは中山城と細窪の城を合わせたものになるんだろうか。
築城年代、築城者は不明です。史料、伝承等も無いらしいが、立地から小井弖氏に関わる城館だと推測されている。同氏については同じ殿島城のリア攻めマップにある、内城、カンバ垣外、フブキ垣外城、薬師堂城も併せて参照して下さい。
小井弖氏の出自を藤原南家工藤氏流(小出系図、百家系図稿)とする系図によれば、室町時代中期の当主、伊賀守有能は諏訪氏に仕えたとある。享徳三年(西暦1454年)三月廿六日、小井弖上総(有能の子、上総介有房、もしくはその子、上総介政綱か。)宛、諏訪信満安堵状には、「栗林(諏訪郡)南方したらん道、此間知行分、給分として無相違可有知行候、仍如件、」とあり、諏訪信満は、小井弖上総に、諏訪郡栗林南方したらん道の知行を安堵している。上総は神官系とは異なり惣領家系の小井弖氏だと推測されているが、この時期は諏訪社上社が内訌(大祝家と惣領家の争い。)の渦中にあり、諏訪氏惣領家によって何らかの家中の再編が行われていた可能性が推測出来る。
伊賀守有能の長男、加賀守有綱の系統は神官家系、次男の上総介有房の系統は惣領家系と伝わるが、前者は有綱の孫、孫八郎有時が信濃国大門峠の喧嘩で絶えたとされ、有時の家督は上総介有房の子、上総介政綱が嗣ぎ、神官家と惣領家は合一されたようだ。政綱の跡は八郎重継、続いてその子、新八郎吉綱が相伝、吉綱の長男、小井弖越前守重綱は武田氏に出仕している。
天文拾六年(西暦1547年)丁未八月十一日、小井弖越前守(重綱)宛、武田晴信感状には、「今十一日、未刻(13時00分〜15時00分の間)、於信刕佐久郡志賀城、頸壹、高田右衛門佐(憲頼)打捕之条、神妙之至候、弥可被抽忠信者也、仍如件、」とあり、武田晴信は、信州佐久郡内志賀城(アプリの登録城である。)において高田右衛門佐(関東管領、上杉憲政から遣わされた大物である。上野国甘楽郡内菅原城城主であった。)を打ち捕えた小井弖越前守の軍忠を褒している。
永禄十年(西暦1567年)丁卯十二月十五日、小井弖越前(重綱)宛、武田信玄朱印状には、「荻原神田被相渡候條、於祭礼者、任于舊記厳重ニ勤役、以田地之徳分、栗林(諏訪郡)御頭役銭不足之所、可被補之候、御下知候者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、小井弖越前に、荻原神田の田地の徳分を相渡すを以て、諏訪社の祭礼における栗林の御頭役の銭不足を補う事とし、併せて旧記に則り厳重に役目に勤めるよう求めている。
お城は台地縁の突端部を活用した縄張、別称にある中山城と細窪の城は前述した窪地形によって分断されており、何れも現在の中心地は墓地となっている。どちらも藪が酷くて探索には無理があるが、城郭遺構としては中山城の方には堀切が2条、細窪の城には下段に小郭と石祠等が鎮座する土塁様の土の高まりが確認出来る。冬場ならそれ以上のものも見れるとは思うが、細かな遺構に血眼になるよりも三方急峻な要害地形を愛でるのが正解だろう。
真夏のリア攻めにぴったりなのが殆ど登らない物件なんだけど、藪な事にはやっぱし変わりが無い。冬場に訪ねれば良かったなぁ…等と後悔する事も多々あったりする。自然が相手の中世城館廻り…上手くはいかないもんだなぁ…
※写真には撮影日時が違う物が2枚含まれている。
※写真③、向かって左手が中山城、右手が細窪の城、謂わゆるお隣りさん、一城別郭だ。
※写真⑥は逆にポリュームアップしてるけど堀切を撮影した物っす…