カンバ垣外
カンバ垣外([殿島城 周辺城郭])
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カンバ垣外の口コミ情報
2025年06月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
カンバ垣外は殿島城の西北西約2.4km、大田切川北岸(左岸)、小戸沢川南岸(右岸)、標高約669mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される居館城です。東麓のJR飯田線の下島駅からの比高は45m位でしょか。該地は第二河岸段丘面に当たり、周辺は多数の中世城館跡が密集する場所である。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。付近に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
「信濃の山城と館5、上伊那編」に未掲載の物件である。伊那市では埋蔵文化財としての認識があり、昭和五十三年(西暦1978年)には発掘調査が行われ、出土した遺物から中世のものと推測される七戸の住居跡、多数の竪穴、柱穴、土坑等、更には室町時代の中期頃のものと推測される内堀と中堀が検出されている。
築城年代、築城者は不明です。史料、伝承等も無いが、立地から小井弖氏に関係する城館だと推測されている。同氏については同じ殿島城のリア攻めマップにある、フブキ垣外城、薬師堂城も併せて参照して下さい。
小井弖氏は鎌倉時代の初頭には既に在地していたと考えられている。「吾妻鏡」、治承四年(西暦1180年)九月十日己未の条には、甲斐源氏、武田太郎信義、一條次郎忠頼が、伊那平氏、菅冠者を討伐し滅亡させたとの記述があるが、この際に両名に従い軍忠のあった工藤氏の者が小井弖郷の地頭職に補せられたとする説がある。又、同書には、正治元年(西暦1199年)、小井弖為綱は、京大番役の催促を受けたが、病いにより代として子の能綱が信濃守護、比企能員に従って勤仕したとの記述もあり、既にこの頃には在名を称していた事が判る。
建長三年(西暦1251年)二月五日、小井弖能綱譲状案によれば、小井弖能綱は、伊那郡小井弖、二吉両郷の地頭職を子の師綱に譲っているが、この中には、「…相伝の所領こゐて(小井弖)、ふたよし(二吉)のし四さかい(至四堺)のことハ、宮藤右馬大輔子たゝつな(忠綱)の譲状にも見えたり…」との記述があり、能綱は、別に「宮藤右馬大輔子たゝつな」なる人物にも譲状を書き残している事が判る。譲状を受けとる事の出来る程の人物である訳だが、一族でありながらその父が敢えて工藤姓のままに書かれたのには何か理由でもあるのだろうか。両譲状を見比べると、忠綱が、小井弖、二吉両郷の内、南郷の地頭職を譲られ惣領家に、能綱の子、師綱は、北郷の一分地頭となり分家となっている。この辺りの事情に小井弖氏と工藤氏との繋がりの謎を解く鍵があると思われるのだが…小井弖氏の実系を工藤氏流としない説に同調する形となるが、個人的には右馬大輔子忠綱とは、在地する小井弖氏が工藤氏から迎えた猶子等ではないかと推測している。
小井弖氏は、応永七年(西暦1400年)七月の「大塔合戦」の際には、小井弖薩摩守が守護方として参陣、永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十四番 飯島殿 大島殿 片桐殿 藤島殿 小井弖殿 宮田殿 山寺殿 上穂殿」とあり、中世伊那衆を構成する一氏として参陣している。
垣外の現況は一面の耕作地、畑地、墓地等となっており、耕作地写真家としての本領が思う存分に発揮される物件だ。土地の改良事業によって旧態は失われ、発掘調査で検出された堀跡も推定するしかない。城郭遺構としては南面崖地上に竪堀様地形が一応確認出来るが、谷筋から台地上に上がる単なる道跡とも見て取れる。推測するに南東隅の墓所の辺りに物見台程度の砦、残りの部分は集落、屋敷地等であろうか。ちなみに同じ殿島城のリア攻めマップにある薬師堂城とは段丘面の崖地を介して東西に隣接している。
神本には同じ殿島城のリア攻めマップにあるフブキ垣外城については城館としての掲載があるんだけど、このカンバ垣外については何故だが無視されている。どっちも似た様なものなんだけどねぇ…きっと神の気紛れてやつなんだろう。従って紹介例も皆無なんで参考程度に納めて下さいまし。ちなみに発掘調査結果報告書についてはネットで検索すればダウンロード出来る。