内城
内城([殿島城 周辺城郭])
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内城の口コミ情報
2025年08月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
内城は殿島城の西北西約2.4km、大田切川北岸(左岸)、天竜川西岸(右岸)、標高約667mの河岸段丘台地東縁上平場に立地する居館城です。南東麓のJR飯田線の下島駅からの比高は45m位でしょか。該地は第二河岸段丘面に当たり、城域の北辺は小戸沢川の流れが窪地形を形成し、南辺には「堀」て呼ばれる自然地形の谷筋が深く穿たれている。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。付近に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築城年代、築城者は不明です。史料、伝承等も無いらしいが、立地から小井弖氏に関わる城館だと推測されている。同氏については同じ殿島城のリア攻めマップにある、カンバ垣外、フブキ垣外城、丸山の城、薬師堂城も併せて参照して下さい。
地方の一豪族に過ぎない小井弖氏だが、後には近世大名として発展していった一族を分派させている。即ち、小井弖氏の出自を藤原南家二階堂氏流とする系図によれば、小井弖氏初代、左衛門尉時氏の玄孫、祐重は、経緯不明なるも尾張国愛智郡中村に移り住み姓を小出と改めたが、この祐重の孫、秀政は早い時期からの木下藤吉郎の家人であり、後の和泉岸和田、但馬出石の両藩はこの秀政を藩祖としている。ちなみに秀政の正室は藤吉郎の生母である大政所の妹、栄松院であり、藤吉郎にとっては年下の叔父に当たる。
お城は台地縁の突端部を活用した縄張り、郭は東西に4郭が推定されている。縄張図における通称4郭は町屋を城内に取り込んだものであろうか。付近には「大手町」の小名が残り、面積もそれなりに大きい。通称3郭は屋敷地であろう。郭の西側部分には「屋敷添」の小名が残っている。通称3郭の東側は大堀切だが、これを以て長閑なイメージは急転する。通称1郭と通称2郭は砦の部分であろうか。突端へ向けて急激に狭まる三方急峻な要害地形が雑木林の中から姿を現す。誰でもこの大堀切を下りるのはあらゆる意味で躊躇すると思うが、探索を諦めたくない方は迷わず進もう。田地と化した縄張の先には想像とは全く違う光景が待っている。ちなみに通称3郭と通称4郭を隔てる堀切は用水路に変貌しているが、それ以前は近世に開道された春日道が堀割って通っていたらしい。
伊那谷の城館て山地を除けば平坦な台地縁部上を活用しているものが殆どであり、大多数が後世の大幅な改変を受けている。縄張も起伏に乏しく、がっつりな山城好きには評価が芳しくない。でもねぇ…佐久平のお城にも言える事なんだけど、連続する台地上をぶった斬る横堀状の連続堀切なんて冷静に考えてみれば物凄い土木量なんすよ、天竜川の河岸段丘や急崖を形成する田切地形なんかとも相まって凄味さえ感じさせてくれる。地方、地域としての城館のあり方が確立されているんすわ。地形を存分に活かした築城者の意図をリスペクト、ただのそこら辺の耕作地とは訳が違うんだぜ。
※殿島城のリア攻めマップにある小井弖氏関連の城館、内城、カンバ垣外、フブキ垣外城、丸山の城、薬師堂城だが、内城を中心としてその全てが殆ど隣接している。それぞれを別城として捉えるよりも、一帯が同氏にとって枢要の地であったと考える方が自然なのかもしれない。ちなみに小井弖氏関連の城館はこの他にも6箇所が存在する(推測地を含む。)。流石に口コミすんのも飽きてきた…
※小出秀政〜通称は甚左衛門だが、「甚」は「神」に通じ、諏訪神氏の一党の通称によく見られる文字である。
※春日道〜小笠原秀政の臣、春日淡路守を普請奉行に、飯田と松本を結ぶ新道として開道された。但し、春日道沿いは原野が多く追剝が頻繁に出没、盗人道との悪評を以て後に廃道となった。現在も所々で道形が残っている。
※伊那谷のお城〜公園城の宝庫でもあるんだけど、公園になったお城の方が遥かに幸せだろう。そのお陰で破壊的な改変からは逃れている。
※通称1郭と通称2郭の写真がシャッタースピード優先モードに設定されていて大失敗、省く事にする。ちなみに狭小な部分だけど山城っぽさが感じられる。
※写真⑦、⑧は大堀切を撮影した物っす。こり、最初は自然地形を疑ったけど凄まじい逸品だ。