薬師堂城
薬師堂城([殿島城 周辺城郭])
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薬師堂城の口コミ情報
2025年06月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
薬師堂城は殿島城の西北西約2.3km、大田切川北岸(左岸)、小戸沢川南岸(右岸)、標高約649mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される居館城です。南東麓のJR飯田線の下島駅からの比高は25m位でしょか。該地は第一河岸段丘面に当たり、一帯は多数の中世城館跡が密集する場所である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南東側のJR飯田線の駅、「下島駅」を目標に設定して下さい。駅から西方へ150m程歩けば該地の台地上に上がる舗装農道が付いている。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
「長野県の中世城館跡」で初めて報告された物件である。「信濃の山城と館5、上伊那編」に掲載があり、伊那市でも埋蔵文化財としての認識がある。但し、広範な時代に跨る複合遺跡としてであり、該当するものがあるとすれば、平安時代、中世の集落跡であろうか。ちなみに過去には発掘調査が行われ、青磁が出土した事もあったらしい。
築城年代、築城者は不明です。史料、伝承等も無いが、立地から小井弖氏に関係する城館だと推測されている。周辺において天竜川の右岸河岸段丘上に崖端城を築きまくったのは正に同氏である。
小井弖氏は、藤原南家工藤氏流、工藤(林)藤四郎為綱の子、孫十郎能綱が信濃国伊那郡小井弖郷の地頭職に補任され、在名を取って小井弖氏を称したのが始まりだと伝わる。建長三年(西暦1251年)二月五日、小井弖能綱譲状案によれば、小井弖能綱は、伊那郡小井弖、二吉両郷の地頭職を子の師綱に譲っている。
小井弖、二吉の両郷は伊那春近領の内であった。信濃の春近領は公領であり、その当時の有力在庁が春近名義を使い請負人となって成立した所領である。その有力な在庁官人が、治承、寿永の乱の際に平氏、あるいは木曽義仲に与した事から春近領は源頼朝によって没官され将軍家を本所とする関東御領となり、後には春近領の総地頭職が北条氏惣領へと変わり、これに従って得宗領となっている。
得宗領となった春近領を差配したのが鎌倉幕府御家人、得宗被官の池上氏(日蓮の有力檀那、日蓮宗の大本山、長栄山池上本門寺は同氏の宗仲が下地を寄進して創建された。)である。弘安八年(西暦1285年)には、池上彌次郎入道が既に政所として当地に入部しており、その地頭代に補任されていたのが工藤(小井弖)氏である。大田切川の左岸地域から小黒川の右岸地域にかけての一帯を開発したのは同氏に他ならない。
お城の現況は一面の耕作地、田地、畑地、墓地等となっており、耕作地写真家としての本領が思う存分に発揮される物件だ。土地の改良事業によって旧態は失われているらしいが、「伊那市史」によれば、平山式館城単郭雑形…大手は西側なんだそう。信濃のお城の神は、広大な台地上の全てを単郭とするには無理がある事、大手を西側とするならば、一段高い段丘崖から下りながら城域に入る事を問題視している。
駒ヶ根市立博物館の職員さんに春近領について質問をしたら、「おー、春近!春近は難しいんですよ〜それ専門の郷土史家の先生が3人位居て、春近だけの事を書いた本も出ています。」とのお答え。代わりに図書館で春近関連の記述が掲載された小冊子の検索方法を教えてもらう。結構、若い女性の方だったけど、色んな話が弾んでしまい思わず長居してしまった、日本の未来もまだまだ捨てたもんじゃないわ。忙しい中、お付き合いしてくれて本当にありがとう。ちなみに伊那春近領は南信の郷土史家の間では一大テーマらしい…素人が下手な事書くとぼこぼこにされそうなんで当たり障りの無い所から…
※伊那春近領〜伊那郡に割拠する他の豪族、赤須氏、飯島氏、片桐氏、田島氏、名子氏等も同領内の地頭職、もしくは地頭代、即ち、開発領主として発展していった経緯がある。領域は現在の伊那市から下伊那郡松川町に跨る広大な地域に及んでいるが、その詳細を知る事はこの地域の中世の歴史を理解する上での近道(沼だけど…)だと考えている。アプリの登録城、赤須城や船山城の発生にも当然、影響してくる筈…ちなみに現地に赴いて初めて解るが、周辺地域は木曽山脈から流れ出る大小河川の自然流水が比較的に緩やかに段丘台地上を東流して天竜川に流れ込む。非常に開発が容易な地域だったと思う。
※池上彌次郎入道〜あじさい寺で知られる伊那市の日蓮宗の寺院、感応山深妙寺の開基でもある。伊那市を中心にして日蓮宗の寺院が散見されるのは彌次郎入道の影響による。
※大手は西側〜付近を探索したがあり得ない事だとは言い切れないと思う。薬師堂城の西側上段には「カンバ垣外」と呼ばれる段丘台地上の平場が存在するが、此処には小名から別の居館城が推測されている。即ち、両城は連絡していたとも見て取れる訳だ。