古町の古城(爪ヶ崎城)
古町の古城(爪ヶ崎城)([殿島城 周辺城郭])
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古町の古城(爪ヶ崎城)の口コミ情報
2025年06月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
古町の古城(爪ヶ崎城)は殿島城の北方約3.9km、天竜川東岸(左岸)、三峰川北岸(右岸)、標高669.6mの河岸段丘台地上平場に立地する居館城です。南麓の国道361号からの比高は20m位でしょか。該地は第一河岸段丘面に当たり、この部分においては天竜川と三峰川の合流点へ向かって張り出す舌状台地を形成している。もしかしたら両川によって削られた地形なのかもしれない。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある、北側の「伊那公園 駐車場」に捨てるのがよい。ちなみに該地はポケモンGOの聖地でもあるらしく、その手の輩は立ち入りが禁止されている。
築城年代は応永年間(西暦1394年〜1427年)、築城者は春日(伊那部)氏です。同氏は信濃では珍しい平姓だが、平安時代後期の伊那郡には平氏の与党、菅冠者平友則が大きな勢力を保っていたので不思議な事ではないのだろう。
「長野県町村誌」には「城墟」として、「名称知れず。本村(伊那部村)の中央古町の東にあり。東西三十間(約54.5m)、南北三十間、方形をなす。応永の頃春日河内守居住すと云ふ。其地の東に連接して一の古塚あり、近時碑を設く。」とある。又、未見だが、「高遠記」には、応永年間に春日河内守昌吉が、「箕輪記」には、鎌倉時代の後期に春日宗十郎が爪ヶ崎城城主としてあるんだそう。
南信では比較的に名の知れた春日氏は後に伊那部氏を称するが、伝えられている事跡が皆無に等しく調べていて困惑する。同じ殿島城のリア攻めマップにある春日城の築城者でもあるのだが…頑張って数少ない断片を探ると、弘治二年(西暦1556年)、武田氏に叛いて同郡狐島において誅された上伊那の侍、八人の中に「いなべ殿(伊那部新左衛門)」の名が見える。ちなみにwikiでは、春日城の築城者を滋野氏三家の一つ、祢津氏の分流、春日氏に求めているが大変な誤りではないだろうか。
お城は崖地上の先端部に築かれ、連続する台地上をL字形の堀で区切ったものだと推測されている。改変著しく旧態は見ないが、崖地の斜面上には若干の堀形、崖端の南西隅には土塁様の高まりが確認出来る。ちなみに南麓には伊那郡高遠へと続く古道が通り、更にその南方の狐島、もしくはその周辺には天竜川の渡し場(まえふち)が推測されており交通の要衝である。
永禄四年(西暦1561年)八月九日、高遠之新衆宛、武田信玄宛行状案には、宛名人の一人に「春日新次郎」の名が見える。天正十年(西暦1582年)三月二日、高遠城に籠城、奮戦、討死し、仁科五郎信盛と共に五郎山に葬られた春日氏の者もあったそうだが、推測するに同名、もしくはその後嗣であろうか。以降、武家としての春日氏の名は歴史の表舞台から完全に姿を消す。
※wikiでは〜多くの春日城の紹介例が何の疑いも無くこの記述を基にしている。
※仁科五郎信盛〜言わずと知れた武田信玄の五男である。盛信と呼ぶのが一般的だが、天正九年(西暦1581年)二月廿一日以降に改名したと考えられている。