春日城(野口城)
春日城(野口城)([福与城 周辺城郭])
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春日城(野口城)の口コミ情報
2025年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今の山城跡て謂わゆる山林になってる所が殆どっすよね。現代に生きるめぐら〜達は藪に塗れたお城の探索に慣れさせられちゃっている訳だけど、往時は寄手に隙を与えないために木々は伐採され下草も刈り払われていた筈…少なくともおいらが城主だったらそうするわ。焼討されるのも防げるだろうしね。
つまりは往時とは違った風景を見せられている訳だ。治山への影響上、木々が群生していた方が望ましいけど、その分、現況を割り引いて見る作業が発生するし、全体像を把握するために想像する事すら求められたりもする。
今回、紹介するのはそんな山林が全く消え去ったお城、一時的とはいえ全国的に見ても発掘調査時以外では非常に珍しい状態だ。その全体像が容易に把握出来る。これから新たな植林が始まると思うけれど訪ねるのなら今がチャンスだ。
野口城(春日城・城山)は福与城の南南東約3.4km、棚沢川北岸(右岸)、標高905.0mの山稜山頂から南方へ伸びる尾根下段上、標高約838m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の手良野口東松集落からの比高は55m位でしょか。ちなみに地元では別称の春日城で知られているが、伊那市だけでも春日城は3城が存在する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も城域内に付いている。
築城年代は不明、築城者は野口氏と伝わる。該地の伊那市手良野口は中世における野口村であり、「長野県町村誌」によれば、野口、中坪、下手良の各村は、諏訪郡手良郷に属する一村であったが、後には手良郷自体が伊那郡に属するようになったとある。又、永禄元(西暦1558年)申年〜同五(西暦1563年)戌年まで、福与城城主、藤澤次郎頼親の領する所であったともあるが、同名はこの頃には義兄の小笠原長時と共に上洛して三好長慶の元にあったとも云われており、伝えられた年号自体に誤りがあるのかもしれない。
天文十七年(西暦1548年)四月十七日、武田勢は、杖突峠に陣所を取り、諏訪(高遠)頼継が拠る高遠城を自落させ、十八日には高遠屋敷に陣所を進め、十九日には高遠城の鍬立を執り行い、廿日には箕輪へ着陣し、箕輪次郎(藤沢頼親)が拠る「箕輪福興(与)」の城へ取り懸かっているが、「小平記」には、「…前略、城に籠る武士にも、松島、大和、長罡、小河内、福島、木下、此衆何も箕輪(藤沢)殿内にて、是も大身の士なり、此他野口、手良、八手、平出、高木、辰野、宮木、神戸、赤羽、樋口、有賀、渋戸、此等の者共都合百余騎、雑兵千五百篭城なり、…後略、」とあり、「野口」が藤沢頼親と共に福与城に籠城している。野口氏とは旧来から藤沢氏に従う在地土豪の一氏であろう。
縄張は6郭で構成されており、別に腰郭や段郭が小郭として付く。明瞭な堀切や土塁が今も健在、城跡としての残存度が高い部類に入るだろう。つべこべ言うのは野暮ってもの、是非とも訪ねて頂きたい物件だ。普通だったら近くに行かなきゃ確認出来ない堀切が遠くからはっきりと見えるんすよっ!郭間の繋ぎなんかもばっちりっ!築城者の意図を容易に知る事も出来たりする。そして何よりもめぐら〜の山城に対する認識を覆すその状態にびっくりっ!誰もがすげーって思える筈だ。もう、感動でしかない…おいらはタイムスリップしたよな不思議な感覚に囚われた。
縄張が立派な山城は全国に無数に存在するけど、鑑賞に耐えるものは全体からすればごく僅かだろう。特に城域を見通す事が絶望的に難しく、各遺構をパーツとして見るのが精一杯の所が殆どだ。従って野口城の現況は奇跡とも言える。主郭に立って周囲を見渡せば、飛び込んで来る風景に必ず圧倒される筈だ。こんなん他では見れないぜ。もしみんなの周りで誰かが山城に興味を持ったとしたら、まず最初に此処をアテンドしてみたらどうだろう。下手な解説をしなくても済むと思うさ。
※名称から春日(伊那部)氏との関連性を疑われてもいるが、現地説明板によれば、「前略…、明治三十六年(西暦1903年)に内務省神社局に届けられた報告書によると、仁治二年(西暦1241年)に野口甚吾が西山に城を築いて三の郭に野口氏の祝殿である春日社を城の守り神として祀ったことから春日城と呼ばれるようになったという。後略…、」とある。ちなみに平姓と伝わる春日氏が何故に藤原氏の氏神である春日神を祀るのかが不思議でならない。
※未登録城にも拘らず口コミが4件もある人気物件だけど、その内の1件については、野口城の南西約7.4kmに位置する、赤須城のリア攻めマップにある春日城の誤り。
※「小平記」〜二次史料ではあるが貴重だ。
2024年10月15日 ᴿᴱᴰ副将軍
二重堀切が見事な詳細不明の城跡🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
伊那市には複数の春日城が存在します。今回は手良野口の春日城なのでご注意下さい。
築城年代や築城主等の詳細不詳。
「1241年に野口甚吾が西山に城を築いて三の郭に野口氏の祝殿である春日社を城の守り神として祀ったことから春日城と呼ばれるようになった」と内務省神社局の報告書にある様です。
北西山麓に小松氏の登内城があるため小松氏の詰城とも、武田信玄と福与城に籠城して戦った伊那衆の中に野口氏があることからその関係性も指摘されています。
見所
野口八幡神社の北側背後の標高838mの城山に築かれています。
山頂に土塁囲みの主郭を置き、北西、東、南へ伸びた尾根は堀切で遮断。東と南の堀切は横堀状に繋がっています。
特に北尾根は大規模で二重堀切となっています。南尾根は小規模な段郭群が連なり、東、南、南東の各支尾根も堀切で遮断されています。南側は東尾根の二重堀切が大規模で残存度も高いです。
行き方は、城域東側に案内板が出ており車で城域まで行くことが出来ます。未舗装ですが広い駐車スペースもあります。
木々が伐採されており遺構が見やすくなっていますが、伐採のし過ぎで風化の進行と土砂崩れを心配してしまいました。
2024年03月03日 ほりーないと信濃守
春日城(野口城)の説明板に「尾根伝いに福与城に至ることからその支城であったともいわれる」と書かれているとおり、箕輪町の福与城の周辺城郭として登録されています。福与城から高遠城への道筋(美篶箕輪線)に位置します。
伊那市には「春日城」と呼ばれる城が複数あり、春日公園(春日城)とは違いますので、ご注意下さい。
木々が伐採されてスッキリした「行けばわかる城」です。初めて登城した時は驚きました。2回目の登城には城友様2人をお誘いしました。城域は意外と広く、その前のリア攻め疲れもあり、主郭のベンチに座って一人休憩。城友様たちはどこへ行ったのか…探さなくても、主郭からすぐに見つける事ができました。
城主・築城の年代はわかっていません。武田氏の侵入時も、その後も、伊那谷を守ろうと必死だったと想像します。
2023年04月03日 サスケ民部大輔
春日城は伊奈の豪族、伊那部大和守重慶の居城です。重慶の孫、伊那部重親の代に武田信玄に背き、鎮圧されてからは高遠城の支城として整備されました。その後、1582年(天正10年)、織田信長の軍勢が信濃に侵攻すると、本城の高遠城とともに攻撃を受け落城しました。現在城址は春日公園(春日城址公園)として整備されており、高遠城と並ぶ県内有数の桜の名所として知られています









