市野瀬古城
市野瀬古城([高遠城 周辺城郭])
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市野瀬古城の口コミ情報
2025年11月09日 内記かすりヾ(・ε・。)
さて、私、市野瀬古城を覚えているでしょうか…え、知らない?ほ、ほら、今年の四月まではアプリの青色登録城だったじゃない?みんなもぽちしに訪ねた事が一度はあるんじゃないかしら…え、自然と遠くからぽちれてたからわざわざそんな所には行かないよですって?…酷い、酷過ぎる…確かに私に残された写真は僅かに25枚、その内の7枚は案内板か説明板、5枚はアカマツ、2枚は城跡からの展望、1枚は山麓の駐車場…て、半分以上が本当の私の姿じゃないじゃないっ!このままじゃアプリ的に完全に幻のままで終わってしまう…誰か私に気付いて頂戴っ!そして私の事を忘れないでいて頂戴っ!
…市野瀬古城は高遠城の南南東約10.5km、三峰川西岸(右岸)、標高約906mの独立丘陵頂部上平場に立地する要害です。東麓の三峰川からの比高は45m位でしょか。
…なんだけど、実はこのお城、古くは熊野城(城山)て呼ばれており、同じ高遠城のリア攻めマップにある一ノ瀬城(市野瀬古城)の物見台がその発生と推測されているんすわ。ややこしいんだけど、市野瀬古城とは熊野城の北西山麓の居館城の事であり、後世に肝心の部分が精査されないまま定着してしまった感がある。考えようによっては居館城の単なる部分であったとも言えるんだけどねぇ…誤った認識が常に上書きされるコピペ文化に警鐘を鳴らしたいぜ。
行き方はGoogleマップに「市野瀬古城跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はリア攻めマップにスポット登録されている「市野瀬古城駐車場」に捨てれはよい。
築城年代は応永年間(西暦1394年〜1428年)、築城者は市野瀬兵庫正保と伝わる。同氏は本姓が信濃では珍しい平姓とも伝わるが、伊那郡市野瀬に入部した経緯等については全くの不明、該地の南南東約3.6kmに位置する浦集落には、平惟盛の落人伝承が残っているそうだが…ちなみに中世の市野瀬は、伊那郡内入野谷庄を構成する一村であったようで、同庄は諏訪社上下社の社領であった時期が殆どであったとも。
明治九年(西暦1876年)に成立した「長谷村地誌」には「市野瀬熊野城墟」として、「其村中央の山にあり。東西北の三方は険阻なり。南に堀あれ共無水なり。東西中央にて十間(約18.2m)、南北五十六間(約101.8m)にて半菱の形地なる城なり。應永の年間より、平惟茂の末孫、市野瀬兵庫正保、始て之を築き爰に居す。其子但馬守正親、其子帯刀正久、其子帯刀久保、其子兵庫正光、天文八年(西暦1539年)武田晴信に属し、甲州へ移る(伊那武鑑根元記に見へたり)」とあり、「古城址」と書き込まれた絵図が添付されている。文中にある「天文八年武田晴信に属し、」は、推測するに天文十八年(西暦1549年)の誤伝であろう。
南北二郭で構成される縄張、城郭遺構としては、埋まり気味の堀切と若干の土塁の残滓が確認出来る。堀切は総計で4条を数えるが、1条を除けばかなり難しい状態、城域南端部に当たる最終堀切は急峻過ぎて確認自体が相当に困難だ。主郭には金比羅神社が鎮座し、過去には「城山公園」て称する憩いの場でもあったようだが、現在は整備自体が放棄されているようではっきり言って荒れまくっている。又、伊那市指定の天然記念物、「城山の松」、7本の内の2本が郭内に屹立しているが、こちらの方もこのままだと藪の中に埋没してしまいそうな感じ…総括すれば主郭に登るよりは三方急崖な独立丘陵の要害地形を愛でるのが正解だと思う。
城下を抜けた後、城山に沿って南行するのが、かつての遠信古道、秋葉道、近世以降の秋葉街道だ。道筋は、市野瀬から山中に入り、分杭峠を越えて伊那郡大河原郷へと進み、再び山中に入って地蔵峠を越えれば伊那郡内江儀遠山庄へと至る。その後の道筋は、遠山谷の谷筋を進み、合戸峠を越えて和田へと入り、八重河内と和田の境目から山中を選んで南行し、兵部峠、青崩峠を順に越えれば国境を跨ぐ。最終的に辿り着くのは遠江国の秋葉山だ。想像もしたくない難所だらけの壮絶な道のりだが、秋葉道は、日本列島の地質を大きく二分する巨大断層、中央構造線が創造した谷筋上を主要経路に選んでおり、信濃国と遠江国とを山越えで結ぶかつての主要道の一つであった。
※遠信古道、秋葉道、近世以降の秋葉街道〜「長野県町村誌」を読むと、市野瀬へ抜ける遠山谷以北の道筋は同道の枝道だと解釈出来る。
※青崩峠〜青崩トンネルて身も蓋も無い名称のトンネルがごく最近貫通した。中央構造線上の脆弱な地盤のために、「あまりの崩落の激しさに日本のトンネル技術が敗退」とまで揶揄される程の難工事だったんだそう。
※写真①は北方からの遠景っす。正に谷筋の関門の地に当たる。おいらはこの占地だけでごはん3杯はイケる。
2024年02月23日 ほりーないと信濃守
高遠城から三峰川沿いの道を分杭峠に向かって進みます。その途中、市野瀬地区に遠くからハッキリとわかる城山があります。
秋葉街道が市野瀬地区内(城山西側)を通っています。諏訪〜杖突峠〜高遠〜長谷(市野瀬地区を含む)〜分杭峠〜大鹿〜地蔵峠〜上村〜南信濃〜青崩峠〜遠州に続く街道です。その歴史は古く、縄文時代には諏訪から黒曜石、遠州から塩などが運ばれました。
南北朝時代、宗良親王(1331〜1385年?)は香坂氏に招かれて大鹿を拠点としました。市野瀬地区から分杭峠を越えると大鹿に入ります。説明板には「室町時代初めの応永年間(1394〜1427年)に市野瀬兵庫正保がこの地に城を築き“熊野城"といった」と書かれています。城山北側「熊野森」には鎌倉時代末に紀州熊野から移住して来た熊野の森の社の神官と関係する宝篋印塔があるそうです。5代城主正光は武田氏に属して甲州へ移りました。
現在の秋葉街道は車道として整備され、諏訪から秋葉神社まで走行できました。2020年豪雨により地蔵峠が通行止めとなっています。市野瀬地区から分杭峠を経由して大鹿まで行くことができますが、道はとても狭く、冬季は閉鎖されています。
2023年11月26日 〓Takashi〓甲斐守
ちゃんと口コミを見てから行きましょう(笑)いいですね、駒ヶ根市から東に攻めちゃダメですよ?悪い事を言わないので、高遠城から南下して下さい…。
(駒ヶ根から東に行くと、コンパクトミニバンでカツカツの◯ソ山道を1時間くらい攻めるハメになります←なった)
(途中、何故かBluetoothのオーディオが止まって、冷たい空気が車内に入ってきて…←)
2013年07月22日 赤いRVR甲斐守@松本
旧道沿いに看板があり、そこから保育園跡の駐車場があります。そこから数分で主郭です。









