蟻塚城
蟻塚城([高遠城 周辺城郭])
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蟻塚城の口コミ情報
2025年12月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、城友さんの口コミを見て思い出したんだけど、過去に4回の訪問経験がありながら全くスルーしてきた物件が今回の口コミ…その内の3回はあくまでもついでになんだけどね。タイミングを失ったていうか、何となく気分が乗らなかったていうかねぇ…暇に任せて写真も探し出せた事だし、少しだけ頑張って向き合う事にしてみよう。
蟻塚城(中の城)は三峰川北岸(右岸)、標高962mの守屋山山頂から西方へ伸びる尾根端部上、標高約839m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の国道361号、通称、信州伊那アルプス街道からの比高は95m位でしょか。ちなみにおいらは此処に来る度、オオアリクイを思い浮かべてしまう。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「蟻塚城跡駐車場」に捨てればよい。通って来た道は一部で堀跡を踏襲している。
該地の伊那市美篶笠原は、「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ、笠原牧の故地であり、「長野県町村誌」の管轄沿革を読むと、承安年間(西暦1171年〜1175年)、笠原平吾頼直が知領したとある。但し、頼直が住した場所については、伊那郡の笠原と高井郡の笠原の二説があり決着する事は非常に難しい(伊那郡の笠原を発祥の地とし、後に高井郡の笠原にも勢力を扶殖させたとする説があり、その逆の説もある。)。ちなみに高井郡の笠原にも同名称の牧が存在したと推測されており、笠原氏は牧官等として発展した一族であったと考察されている。
「高遠記集成 巻上」、「笠原頼直略伝 附高遠築城」には、「…前略、頼直ハ桓武天皇ノ後裔ニシテ、信濃守維茂カ曾孫也、其始高井郡ニ在住シ、後当郡ニ移リ、牧監ニ補セラレ、天神山ニ館ヲ構フ…後略、」とある。
築城年代は不明、築城者には前述した笠原氏が推測されており、同氏は平吾の名乗りから本姓は平氏(桓武平氏)とされている。治承四年(西暦1180年)九月七日、笠原平五頼直は、善光寺平の市原(現在の長野市若里付近である。)において、源氏方の村山義直等と合戦に及んでおり、治承、寿永の乱に際して当初から平氏の積極的な与党であった。又、治承五年(西暦1181年)四月十日、微忠有りとして勘解由判官に任官した「信乃國住人」、頼直は、その除目に「平頼直」と記されている。
「守矢満實書留」、應仁元年(西暦1467年)の条には、「一 應仁此年文正元年成 文正二年丁亥正月 …中略、宮付 笠原美濃守貞政、御符祝一貫、…後略、」とあり、笠原美濃守貞政が、宮付として諏訪社上社の神使御頭を定められている。「神氏系図」における笠原氏は保科氏の末流とされ、後に神氏をも称しているが、鎌倉時代に至ると得宗被官として権勢を振るった諏訪氏と縁戚関係を以て神氏を称する氏族が多かった。笠原氏もそうした内の一氏であろう。
「長野県町村誌」には、「蟻塚ノ城」として、「本村(美篶村)の艮にて白山の麓笠原にあり。鷹永(西暦1394年〜1428年)の頃笠原中務少輔爰に居城し、子孫相續す。今中ノ城とも云ふ、又其邊を馬場杯と云ふ字あり、憶に笠原中務弓馬の稽古の馬場と見へたり、故に今字に稱する所遺號なるべし。」とある。ちなみに今も「馬場」の字名が国土地理院地図には記載されている。
緩やかな尾根上に7郭で構成される連郭式の縄張、西辺の堀切の位置から鑑みて最下段にもう1郭を+してもよいだろう。別に南面に幾つかの小郭が付く。各郭間は堀切+竪堀、土塁や切岸によって区画され、主郭を除く北辺には長大な横堀が貫いている。但し、現況は御射山社の境内に変貌している事もあり、全体的にはファジーな印象、特に堀系は埋まり気味な上にエッジを既に失っている。特筆すべきは主郭の大土塁、自然に時を経て風化した感もあり見応えがある。この土塁が大した苦労もせずに見られる事には素直に感謝したい。ちなみに縄張図が結構、凄いよ。
別称には「中の城」とあるが、同じ高遠城のリア攻めマップにある、天神山城と守屋山城の中間点に位置している事がその理由だと考察されている。前記した「高遠記集成 巻上」にあるとおり、天神山は笠原氏の居館地と伝わり、守屋山城は同氏の物見台等がその発生とも伝わっている。又、真偽は不明だが、蟻塚城の西方約0.4kmの丘陵地上(字五輪林)に建つ五輪塔は笠原平五頼直の物と云われる。
※笠原牧〜信濃国だけでも二箇所が存在するが、遠江国にも同名称の牧が存在した。無性に何故だか知りたい。
※笠原美濃守貞政〜現地説明板には「諏訪御符禮之古書」に名が見られるとあるが誤り、目を凝らして確認したが同書には「笠原」の文字すら書かれていない。出典は文中で示したとおり「守矢満實書留」だ。
2025年10月15日 昌幸近江守更に吉
伊那市にある蟻塚城。室町時代に豪族笠原氏が築いたとされます。笠原氏は諏訪神社神官一族の出と言われ、諏訪氏の分家の分家がこの地に住んで地名の笠原を名乗ったと思われます。戦国末期の高遠は武田氏が支配していました。蟻塚城は伊那方面からの侵攻に対して最初に迎撃できる城として機能していたかも知れません。
縄張りは7段に及ぶ雛壇式の細長い城で郭間には空堀を巡らせていました(現在確認できるのは2〜3条)。2郭には現在御射山社が建ちます。1郭には高さ5mの土塁と背後を薬研堀状にして井水を流していたとされます。蟻塚城の前には天神山城、背後の山には守屋山城があり、3城連携して動いていたとの事です。
駐車場あり。ここから守屋山城も行けます。(守屋山城はとても素晴らしいですよ。蟻塚城まで来たら絶対に行ってください!)
【写真の説明】
①雛壇は社の参道となっている。7郭から6郭(狛犬)5郭(鳥居)を見る。
②3郭-4郭間の堀切は竪堀となる。
③3郭からは土塁が見られる。
④御射山社が建つ2郭。
⑤1郭-2郭間の堀切。
⑥1郭。背後の土塁はお見事。
⑦1郭背後。井水が流れる堀。
⑧1郭を囲むように堀が築かれる。
2020年07月01日 OROKA中務卿
【背後の土塁は見応えあり】
蟻塚城は高遠城の西に位置する城で、地元の笠原氏の城と伝わります。
築城時期や廃城時期については不明ですが、武田氏の信濃侵攻くらいの時期までは機能したかな、という印象です。
アクセスですが、とりあえずは御射山神社を目指します。なぜかというと、この神社が城の三の丸くらいの位置にあるからです。鳥居のあたりに蟻塚城の説明板があるので、車もそのあたりに停めさせていただきました。
段郭や堀切を見ながら参道を進み、神社の背後にさらに進みましょう。(ちゃんと道があります)。神社からはすぐの距離に主郭があります。
遺構としては、神社を含む段郭、堀切や土塁、竪堀が見やすくテンション上がります。また、主郭の背後土塁はかなり高く、上からの眺めはとても良いです。この主郭の背後に土塁と堀切がある感じ、小笠原氏系列の城によく似ています。
高~い土塁に登るのが好きな方、手軽に楽しめるよい城がここにありますよ~♪(´▽`)









