中萱氏堀屋敷(内堀)
中萱氏堀屋敷(内堀)([中塔城 周辺城郭])
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中萱氏堀屋敷(内堀)の口コミ情報
2026年05月20日 内記御手杵ヾ(・ε・。)
中萱氏堀屋敷(内堀)は中塔城の東北東約8.5km、標高約575mの平野部平場に立地した屋敷です。該地の安曇野市三郷明盛は梓川扇状地の央部に当たるが、現在は各堰のもたらす恩恵を直に蒙り一帯には見渡す限りの田地が広がっている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧法国寺観音堂」を目標に設定して下さい。車を捨てられるスペースもある。後はリア攻めマップを参照して屋敷地を特定しよう。その敷地範囲は広く観音堂に殆ど隣接している。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には中萱氏が推測されている。同氏の詳細は出自等も含めて一切が不明、史料に現れるのも唯一度だけだと思われる。
該地の安曇郡住吉庄中萱は、文明八年(西暦1476年)の「諏方春秋宮両宮御造宮帳」に、「中萱分 合籾拾九俵壱斗七升、此代三貫九百七十文、同人(取手 大輪越前守、手執 小祝 与作)」とあるのが文書上の初見、江戸時代の明暦三年(西暦1657年)には中萱堰が開削され、後の文化十三年(西暦1816年)には拾ヶ堰の開削によって助左衛門堰、中堀堰に余水が生じた事から更に水田化が進み村高が大幅に増加、その集落はいつの頃からか上下に別れ、庄屋や与頭、郷倉もそれぞれに存在した。ちなみに該地は下中萱に当たっている。
明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」の大宮分には、「中萱 御幣帋五枚半、手束麻五把半、釘五半、銭五文半、籾四斗七舛五合、白米四升七合、」とあり、中萱は他の安曇郡の諸郷村と共に穂高社の御造宮の諸役を負担している。
「南安曇郡誌」によれば、「貝梅から等々力に出て矢原・細萱・唐笠木(吉野)・中萱を経て一日市場・七日市場に至る道筋。」とあり、千国大道と伝承される四筋の内の一つが中萱を南北に通っている。中世の同道は、謂わゆる安曇野に入ると五筋に別れたとも推定されており、西から数えて三筋目と四筋目が中萱を南北に並行して通っていた。特に四筋目の道は屋敷地の東南約0.3kmの位置に六日市場をもたらし同地の発展を更に促している。ちなみに郡誌に書かれる全ての地名等には中世の居館跡等がそれぞれに確認出来る。
天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、同四御柱を負担する住吉之郷(庄)の内に、「中萱分 正物壱貫四百六拾文 此外貳百文 手師小祝 代官 中萱次郎衞門尉 同新右衛門尉 同采女佑」とあり、武田氏時代、該地の中萱には、中萱次郎衞門尉、同新右衛門尉、同采女佑等があった事が判る。最初に書かれる次郎衞門尉は当主であろうか。
屋敷の現況は…耕作地、空地、一般住宅地等となっている。別称にあるとおり、内堀と呼ばれていたのだから外堀も存在したのであろう、その敷地範囲は集落の一区画に及ぶ広大なものであり、一族、被官衆等の集住を窺わせている。「内堀」、「御頭」の屋号を持つ一般住宅とその敷地が中心地、その北西側にある屋号、「隠居屋」のお宅は当主等の隠居所であろうか。城郭遺構は完全消滅しているが、源氏塀も見受けられる集落の佇まいは雰囲気が十分、訪れる者に武士の屋敷地としての何らかの印象を与えてくれる事に間違いは無いだろう。
かつて屋敷地の北辺に隣接していたのが八坂神社、主祭神が津島牛頭天王であった事から下中萱の市神と考えられており、即ち、六日市場の市神である。又、真々部七寺の一つとされる報国寺が、屋敷地の東側、現在の観音堂(前述した旧報国寺観音堂である。)の建つ場所にあったそうで、堂には本尊であった十一面観世音菩薩像が安置されている。正に下中萱集落の中心に武士の居する堀屋敷があった訳だ。
※写真⑧は麦畑に咲くナガミヒナゲシの花越しに見る下中萱集落の近景っす。知らんかったけどこのお花、外来種なのね。しかも素手で触ると危険らしい…









