犬甘城
犬甘城([松本城 周辺城郭])
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犬甘城の口コミ情報
2025年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
犬甘城(蟻ヶ崎山城)は松本城の西北西約1.6km、奈良井川東岸(右岸)、大門沢川北岸(右岸)、標高743mの鳥居山から南方へ伸びる尾根端部上、標高約677mの城山山頂部を中心に立地する要害です。西麓の奈良井川からの比高は100m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は城山公園として整備されており車での進入も極めて容易、山城とはいえ散歩気分で訪ねられるしデカい駐車場も付いている。ちなみにおいらはもうやらないけど、車中泊にはぴったりのロケーションだ。
築城年代は正平年間(西暦1346年〜1370年)と伝わるが確証を得られない。築城者は犬甘氏です。同氏は古代に安曇郡に土着した大伴氏の後裔とされるが諸説あって定まらない。途方もないので詳細も真偽も語らないが、中世において大伴姓を本姓とする氏族等が安曇郡において興隆したのは紛れも無い事実であり、信濃国三宮、穂高神社の大檀那、細萱氏も大伴姓を称している。
犬甘氏は、国府に近い蟻崎(阿礼崎)を本拠としていた事から国衙等に勤仕する在庁官人の一氏として発展していったと推測されている。但し、室町時代以前の史料が皆無に等しくその実態は不明であるとしか言い様がない。
数少ない史料を漁ると、嘉暦四年(西暦1329年)三月、「諏方上宮五月會付流鏑馬之頭、花會頭与可為同前御射山頭侃結番之事」を定めた鎌倉幕府下知状案には、「三番 五月會分 …前略、流鏑馬、阿礼崎(筑摩郡)犬甘十良(郎)、付大村地頭跡、…後略、」とあり、阿礼崎(蟻崎)には犬甘十郎なる人物があった事が判る。
建武三年(西暦1336年)二月廿三日、村上信貞證判、市河経助軍忠状には、「市河十郎経助軍忠事 右、先代(北条)高時一族大夫四郎(時興)并當國凶徒深志介(知光)以下之輩蜂起之間、爲御追伐之大将、村上源備中信貞今月十五日御発向之間、於麻績十日市場(筑摩郡)致散々合戦、抽軍忠上者、給御一見状、爲備亀鏡、恐々言上如件、」とあり、村上信貞に従い、北条時興(泰家)、深志介知光等以下輩と、麻績御厨十日市場において散々に合戦した市河経助の軍忠が証されているが、文中にある「深志介(知光)」が犬甘氏の者ではないかと推測されている。同氏の通字である「知」がその名に含まれている事、深志(後の松本である。)介を名乗る人物は、同地に影響力を持つ者に限られている事がその根拠だ。
以降、特に南北朝時代から室町時代の初頭にかけて、犬甘氏は信濃守護であった小笠原氏の被官化が進んだと考えられている。貞和三年(西暦1347年)五月廿日、小笠原まこ二郎(政長)は、足利尊氏から、実父、貞宗より譲られた、信濃守護職と所領の全てを安堵されているが、この所領の内、近府春近領を足掛かりに府中への勢力の伸長を図る小笠原氏にとっては、犬甘氏等の在地根本勢力等の協力が必要不可欠であった事は想像に難くない。
立派な公園城だが、所々で味気ない改変が見られるとはいえ縄張は良く残されている方だと思う。山城好きは城域西側下段の遊歩道から連郭部を眺めるのが正解であり、こちら側は実にワイルド、城域東側の駐車場から見る風景とは表情がまるで違う。城郭遺構に血眼になるよりは要害としての形状を素直に楽しむべき、整備方法に否定的になるのは致し方無いとしても本来のポテンシャルが相当に高いお城だと誰でも実感出来る筈だ。
松本城博士のおいらが上から目線で教えてあげるけど、藩政期における犬甘の城山は、松本城の全てが覗ける事から留山であった時期が殆どだ。従って耕作地としての改変等は無かったものと思われる。又、前述した城山公園の歴史は意外にも古く、天保十四年(西暦1834年)、松本藩藩主、戸田光庸が、楓や桜、数千本を植えて領民に開放した事がその始まり。明治八年(西暦1875年)には太政官布告第十六号に基づき正式の公園に指定された。現在では、市民の憩の場として、仕事をサボる営業マン等の惰眠を貪る場としても人気が高い。ちなみに今年はこの城山の付近でも熊(らしき獣…)が目撃されているそうなんでちょとクマりま…(o゚Д゚)=◯)`3゜)∵グハァ
※築城年代は正平年間(西暦1346年〜1370年)〜伝承だろうが当時の状況等を考慮すると割といい線を突いていると思う。
※深志介〜前記軍忠状にその名は書かれないが、別の軍忠状には「深志介知光」と書かれている。
※整備方法〜そもそも論で公園として整備されている。城跡としての整備は考慮されていない。
※写真⑦は…どの縄張図を見ても竪堀は描かれていないんだけど、自然地形や崩落痕ではないと思うさ。
2025年05月15日 織田上総介晃司
城山公園に駐車場とトイレがあります。公園となってますが、曲輪や堀切等残ってます。
一日で林城(大城・小城)・桐原城・山家城・埴原城をリア攻めしようと思ったが、無理と気づき(朝一で筑北村の青柳城もリア攻め。そりゃあ無理だわ!)
宿営地にしようと思ったが、なぜか直感で止めました…
2024年07月02日 ᴿᴱᴰ副将軍
小笠原氏の忠臣であった犬甘氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
犬甘城(いぬかいじょう)と読みます
築城年代は不詳。正平年間(1346年~1370年)に犬甘氏により築かれたと云われますが詳細はわかっていません。
犬甘氏は、信濃国守護である小笠原氏の家臣とされ、犬甘城は小笠原氏の本拠地である林城の支城として機能しました。
1550年、甲斐の武田信玄が松本平に侵攻すると、小笠原長時の居城であった林大城をはじめ、深志城、岡田城、桐原城、山家城が落城。小笠原長時は村上義清を頼り北信濃へ落ち延びましたが、その後も犬甘城の犬甘大炊助は武田信玄に抵抗。最終的には馬場信房により乗っ取られ、廃城になったと云われます。
江戸時代となり1843年には松本藩主の戸田光庸により犬甘城跡を庶民の公園として開放されたと云われ、現在も城山公園として市民の憩いの場となっています。
見所
梓川の支流である奈良井川東岸の標高670mの丘稜先端に築かれています。
南北に伸びる稜線上に北側の主郭から六郭まで直線に連なる連郭式。郭間は堀切により区切られたシンプルな構造です。
公園化により改変を受けていますが、それなりに山城遺構を楽しむことが出来ます。
松本城から北西に1.5kmと近く、オールシーズン車で容易に訪れることができる為オススメです。
行き方は城山公園を目標に設定。車で山頂近くの駐車場まで行くことができ、駐車場から南西に進めば郭群に辿り着きます。
2024年01月02日 気分爽快右大臣
松本城のリア攻めマップを見ると、松本城が見下ろせそうな山城(小高い丘)があります。
西側は奈良井川沿いに断崖となっていますが、東側はなだらな斜面となっていて簡単に攻め落とされそうです。
郭は尾根沿いに並んでいて立派な堀切があります。
予想通り松本城は良くみえましたが、私のスマホで撮るにはちょっと遠かったです。
①主郭の北
②①から主郭を見上げる
③主郭東の腰郭
④ニ郭と三郭の間の堀切
⑤堀切よりニ郭の虎口を見上げる
⑥④を横から
⑦三郭から堀切越しに二郭を見る
⑧三郭南の堀切から西に落ちる竪堀
2019年06月29日 野呂利左衛門督休三
戦国時代は小笠原氏の家臣の犬甘氏の城でした。天保十四(1843)年に領民にも開放され、明治八(1875)年に松本市最初の公園となっています。さらに周辺が住宅地にもなっていることから東側から公園に向かうと全然山城へ向かっている気がしませんが、城跡内に入ると堀切に区切られた曲輪跡を見ることができます。また西側は急斜面になっており、遊歩道はありますが、木の生い茂る斜面になっています。そちら側には竪堀もあるそうです。









