岩谷堂城
岩谷堂城([豊田館 周辺城郭])
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岩谷堂城の口コミ情報
2023年05月14日 国府左京大夫城介
仙台藩の北の要衝を守る岩谷堂伊達氏の居城
【歴史】
鎌倉時代以前からこの地に城があったらしいが、諸説あり詳細は不明。
南北朝頃になると、葛西信詮の次男・江刺信満が城主だったと伝わる。
江刺氏は、その後勢力を拡大すると、宗家である葛西氏と対立し、数度に渡り、合戦に及んでいる。明応4年(1495)に、江刺隆見は葛西政信に敗北し、降伏している。その後、葛西政信の孫・重親(重胤?)が城主となり、江刺氏を名乗っている。しかし、数代後の天正13年(1585)頃には、当主の信時は葛西宗家から勘当され、一族の重恒が当主となった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置において、葛西氏は所領を没収され、江刺氏も岩谷堂を去った。葛西氏の旧領は、木村吉清に与えられ、岩谷堂城には家臣の溝口外記が城代として入城したが、溝口は葛西・大崎一揆において一揆勢に敗死した。
翌天正19年(1591)の奥州再仕置時には、大谷吉継が在城し、縄張りの改修が行われ、伊達政宗に引き継がれた。岩谷堂城には、桑折政長をはじめ、伊達氏の重臣が在城したが、万治2年(1659)に伊達(岩城)宗規(伊達忠宗の七男)が入城し、幕末まで岩谷堂伊達氏(仙台藩一門第二席)が統治することとなった。
別名:柄杓ヶ城、岩谷堂要害
【遺構】
豊田館から北北西2.1kmに位置し、人首川に接する台地(標高114.9m/比高60m)上に築かれている。
現在は館山史跡公園として整備されているが、曲輪、土塁、虎口、空堀、水堀など遺構は良好に残っている。
本丸は円形で縁を土塁で囲み、周囲を腰曲輪と横堀で守っている。また、二ノ丸には伊達氏時代には居館が置かれ、大手には枡形虎口が設けられ、現在も残っている。本丸と二ノ丸の間に、深い空堀で挟まれた中ノ丸という郭が置かれている。
【感想】
遺構の状態も極めて良好な上、アクセスもしやすいので、是非リア攻めしてください。
特に中ノ丸を挟む深い空堀は中々のものです。また、仙台藩の要害では珍しく水堀が現存しています。
大谷吉継がこの城を改修したことは全く知らずに訪れたため、かなり驚きました。そのため、城内にある「大谷桜」は、一瞬二刀流の方が植樹したのかと思ってしまいました(笑)
また、近くには「歴史公園えさし藤原の郷」があり、炎立つのロケ地をはじめ、大河ドラマのロケ地になっているので、時間があればこちらも回ってみては如何ですか?
【アクセス】
①水沢江刺駅から、レンタサイクルで約35分。
②水沢駅からバス(水岩線)に乗車し、六日町若しくは大通り公園前(時間帯によってルートが異なるので注意)で降車し、徒歩20~25分。
【写真】
①登城口
②説明版
③水堀と桝形虎口跡
④二ノ丸
⑤空堀(中ノ丸と二ノ丸間)
⑥空堀(中ノ丸と本丸間)
⑦本丸下の横堀
⑧本丸土塁
2023年04月18日 気分爽快陸奥守
史跡公園となっており、駐車場も完備されています。二ノ丸が高校のグラウンドになっている広大な城域で、中ノ丸を経て本丸に至ります。本丸は横堀と土塁で囲われた円形のような郭です。
①本丸の横堀
②本丸と中ノ丸の間の堀切
③本丸の下段
④中ノ丸の土塁と横堀
⑤二ノ丸
⑥中ノ丸
⑦本丸北
⑧本丸虎口