河崎の柵(覚鱉城疑定地)

河崎の柵(覚鱉城疑定地)([薄衣城  周辺城郭])

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河崎の柵(覚鱉城疑定地)の口コミ情報

2022年01月05日 【配龍】沼田乃豆腐屋


『河崎の柵』と『覚鱉城(かくべつじょう)疑定地』の二重遺跡
【河崎の柵】
前九年の役の直接の原因は、婚姻に発した差別意識であったが、これはとりもなおさず中央と地方との人種的偏見、政治的経済的対立による現地住民の中央への強い反発等がからみあって前後十二年間にも及ぶ長い争乱となったのである。
源頼義は頼時の亡くなったのを知り、安倍氏の勢力が衰えたものと判断して、一挙に根拠地の衣川を攻め、安倍氏を壊滅しようと兵千八百人を率い衣川に向かって進軍した。これに対し新総帥の安倍貞任は、部下の金為行の拠る川崎村門崎の河崎柵へ四千人の兵を集めた。貞任はこの兵を率い、薄衣から山を越えて、藤沢町黄海に抜け反撃に移った。この戦いが有名な黄海の戦でこの時のことを『陸奥話記』には、同年十一月、将軍兵八百余人を率いて、貞任等を討たんと慾す。貞任等精兵四千余人を率いて、金為行を以て河崎柵にゆき営と為す。黄海に拒ぎ戦う。

【覚鱉城疑定地】
今をさかのぼる1230年の昔、蝦夷侵略に全力をあげていたヤマト政権が胆沢進攻を目指す軍事基地『覚鱉城』の造営中、『伊治公呰麻呂の乱』で中断。それっきり歴史から姿を消してしまった『まぼろしの覚鱉城』
ところが平成12~16年北上川狐禅寺峡谷が南に開ける『河崎の柵疑定地』の発掘調査で『河崎柵遺構』より1~2m下層面で『八世紀後半から九世紀初頭』の遺構(竪穴式住居13戸)と遺物(和同開珎、蕨手刀など)が出土。報告書でそれを『胆沢方面への征夷の時代相を表している』と記述。
その出土遺構・遺物を『覚鱉城遺跡』だと言い切られる我が東北古代史研究の第一人者高橋富雄博士(『磐井地方日本学』専任講師)は正史『続日本紀』宝亀三年紀~同十一年紀に見られる、ヤマト政権蝦夷経営の流れに併せ考えるなら納得できるとされていた。『続日本紀』宝亀十一(780)年二月二日紀の『北からの寇道を塞ぎ、三、四月の雨水溢れるとき直進できる覚鱉城』造営の地が、当に北上川東側、詳しくは、狐禅寺峡谷を挟んでの北・胆沢に隣接する南・遠山村(東磐井・気仙)南西、ここ川崎にあってこその記述だったと云えること、その上、和同開珎・蕨刀手などの遺物出土という強力な裏づけがあってのことである。

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