畠山重忠邸

畠山重忠邸([鎌倉城  周辺城郭])

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畠山重忠邸の口コミ情報

2021年11月01日 龍馬太閤【備中の麒麟】


神奈川県の鎌倉市にある【畠山重忠邸】♪今は遺構は残りません☆石碑のみが残ります☆鶴岡八幡宮の西側にひっそりと残ります☆

畠山重忠は源平争乱から鎌倉幕府創立期にかけて多くの武勇や逸話を残した武将として有名です☆
この畠山重忠は元々は北武蔵の名族・秩父平氏の系譜を引いていて父・畠山庄司重能と母・相模の名族 ・三浦義明の娘の間に生まれました☆源頼朝が石橋山に挙兵した際は父・畠山重能が平家に仕え在京していた為に僅か17歳の重忠も平家方に属してます☆平家方・大庭景親に付き源氏方の三浦大介義明と戦い三浦大介義明を自刃に追い込みました☆

石橋山の戦いで源頼朝が安房国に渡り勢力を蓄えると、その軍に従い鎌倉入りの先陣を務めたりもしました☆更に宇治川の合戦、一の谷の合戦、奥州藤原氏の征討などに出陣しており多くの手柄を立てています☆
地元の武蔵国(埼玉県)では児玉党と丹党との争いを調停したりと武蔵武士の中心人物として多くの信望を集め源頼朝からも厚く信頼を得ています☆この信頼を得ていたという事がわかる事としてはこの武蔵国(埼玉県)の領地とは別に伊勢国、陸奥国、信濃国等の遠国にも幕府から領地を与えられていました☆
源頼朝の死後は北条時政に騙されてしまい自領地から鎌倉に行く途中に武蔵国は二俣川(現在の横浜市旭区)で討死しちゃいます☆
因みに旭区には、この戦い時に1万の兵を持って戦ったとされる北条時政軍の言い伝えから『万騎が原』という地名が残っています☆
二俣川で畠山討伐軍(北条時政)と畠山重忠は激戦を繰り広げました☆畠山重忠は愛甲三郎季隆の矢を受け最期を迎えました…

畠山重忠を射た弓の名手・愛甲三郎季隆はその後に起こった和田合戦で和田義盛に味方し一族もろとも滅亡しちゃいました☆

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