当麻の渡し
当麻の渡し([磯部城 寺社・史跡])
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当麻の渡しの口コミ情報
2021年06月25日 長森原
当麻の渡し及び相模川左岸にあった当麻宿は、後北条氏の北武蔵進出の足掛かりとなった交通の要衝地でした。
大永4年(1524)には、北条氏綱が当麻宿に次のような伝馬に関する制札を出しています。
「玉縄小田原よりいしと (石戸) と、もろ(毛呂)へわうふくのもの
とらの印判をもたさる者ニ、てん馬おしたていたすへからす、もしおさえてとるものあらは、きつとめしつれ、おたはら(小田原) へ成共玉なわ(縄) へ成共、こすへき者也、仍如件 大永4年4月10日」
(超訳・虎の印判状を持たずして玉縄と小田原から当麻宿を経由して石戸と毛呂に往復しようとする者には伝馬を使わせるな、従わない者は必ず小田原城か玉縄城に突き出せ)
大永4年といえば、その年の1月に北条氏綱が扇ケ谷上杉朝興から江戸城を奪取し武蔵の諸将に衝撃を与えた年でしたが、上記の制札からは同年の4月には早くも当麻経由で毛呂(埼玉県毛呂山町)・石戸(埼玉県北本市)まで勢力を伸ばし、街道の伝馬管理に乗り出す後北条氏の姿が読み取れます。
しかし、当麻から石戸ってどういう道筋だったんでしょうか。この時点では川越周辺はまだ扇ケ谷上杉の支配下なので、当麻→平の渡し→川越→石戸へ直通の川越道はまだ使えなかった筈。
そして毛呂への道も、まだ山ノ内上杉氏家臣だった大石氏・三田氏の領地は通れなかった筈です。
この時点で考えられるのは、当麻→関戸経由で北武蔵に向かうルートです。1530年にはそのルート付近の小沢城で、上杉vs後北条氏の攻防戦(氏康の初陣戦)が行われています。
写真は磯部城から北1kmの地点にある“3段の滝展望台”から見下ろす当麻の渡し。
写真右手に当麻宿が在りました。