七沢城址案内板
七沢城址案内板([七沢城 碑・説明板])
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七沢城址案内板の口コミ情報
2024年04月07日 いれぶん[⭕️雁雁]
七沢城址の概要
室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。鎌倉公方(かまくらくぼう)足利成氏(しげうじ)の近臣たちと関東管領山内(かんとうかんれいやまのうち)上杉憲忠(のりただ)の重臣たちとの間に争いが起こります。上杉方に攻められた成氏は、いったん江の島にのがれますが、七里が浜での合戦で上杉方は敗退し、憲忠は七沢(ななさわ)山に要害を構えました。成氏は、この年5月に事態の成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。これが「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。
長享2年(1488)、山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定(あきさだ)が、当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。扇谷上杉定正(さだまさ)は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城付近の南実蒔原(みなみさねまきはら)において、少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。これが実蒔原の合戦です。しかしこの時、定正例にも大きな痛手が生じたらしく、一説には、この時七沢城主であった七沢朝昌(ともまさ)(定正の兄弟)が戦死したとも伝えられています。七沢城が最終的に放棄された時期について、はっきりしたことは分かっていません。おそらく、小田原北条氏がこの地域を制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。
城の中心は、現在七沢リハピリテーション病院脳血管センターが建っている部分と思われますが、病院の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。もしかすると実藤原の合戦の際に炎上したのかもしれません。七沢城は中世の山城であり、江戸時代の天守閣を備えた城とはかなり違ったものだと思われます。丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって、大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名が残っています。
右の写真は七沢城跡景観 中央の松付近が高旗、その手前平坦部が本丸。
右端の山は見城、その左奥が大山、その左手写真中央部は日向薬師裏山。
[昭和18年永江預章氏 撮影)
ここは水汲沢(みずくさわ)
七沢城内の将兵が使用する飲料水をここから汲みだした場所と言われている。
問い合わせ 厚木市産業振部観光振興課 TEL.046-225-2464
[説明看板全文]
七沢城址は医療施設建設に伴い、遺構は無くなったとされがちですが、この水汲沢の奥に堀切が残り、山頂にも曲輪と思われる遺構が先人より伝えられています