飯縄神社(飯縄曲輪)
飯縄神社(飯縄曲輪)([津久井城 寺社・史跡])
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飯縄神社(飯縄曲輪)の口コミ情報
2021年01月09日 相模守愛洲久忠
津久井城の曲輪のひとつに、飯縄という名前がつけられていたことの謎は解けませんが、飯縄とは飯綱(読みはイズナです)とも表記されてご本尊は大日如来、神の使徒は天狗という長野県上水内郡を発祥とした神仏習合の山岳信仰のことです。
現況では津久井城のある根小屋に飯縄様の神祠、津久井湖対岸北側の中沢地区の普門寺に飯縄大権現のお堂が残ります。驚くことに、こちらにお祀りされている尊像は高尾山の烏天狗とは違い、不動明王のお顔立ちで額の部分には武田菱の紋所が入っているのです。
飯綱信仰がどれほど浸透したかの目安になり得るかは分かりませんが、室町幕府管領細川政元公は奥義を極める為に護摩を焚き、その呪法の習得と修験に没頭し励んだとも伝わります。
この飯綱信仰は、室町時代から戦国時代にかけて高まった毘沙門天や勝軍地蔵等への信仰と相まって、加護を授かる為に戦勝祈願の対象とされたことなどから主に東日本地域へ広まったようです。
特筆すべき点として、足利義満公や北条氏照公からも尊崇を得ており、上杉謙信公が兜の前立てに烏天狗の飯綱権現像を掲げたり、武田信玄公が甲州に飯綱権現を勧請したことはあまりにも有名です。
また、中興の祖高僧俊源が感得したとされる高尾山薬王院は、後に民衆による信仰の霊山として徳川幕府から絶大な庇護を受けることになります。
となると、ここからは推測の域を出ませんが後北条氏の支配下にありながらも、信仰の部分に限っては少なからず信玄公の影響力が及んだ可能性もあったのではないでしょうか?そうであれば、近隣の土豪や地侍の中には武田寄りの武士の存在が明らかになったようですし、お社を祀った曲輪に飯縄という名が付くのも頷けます。北条氏家中にあって信任厚くご一門衆に次ぐ家格で独自の文書発給を許されていたとされる内藤氏ですが、小幡勢が足止めの為に詰めた事もあるとは言え、三増峠の戦いで内藤軍150騎が津久井城から打って出て、甲斐へ退却する武田軍を挟撃しなかった理由のひとつに挙げられるかも知れません。
今回はどなたかが、リア攻めマップにスポットだけ置かれていたのを、口コミ投稿に利用させていただきました。