黒駒合戦の激戦場解説板

黒駒合戦の激戦場解説板([御坂城  碑・説明板])

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黒駒合戦の激戦場解説板の口コミ情報

2022年03月06日 大膳大夫マイリバ
本日現在、Googleマップに登録されておらず、ググっても詳細な位置が判然としない黒駒合戦⚔に関する解説板です😚
天正壬午の乱で甲斐をめぐり北条🆚徳川の間で繰り広げられた激戦🤤想像するだけでヨダレものですが、解説板に記述のある「岩石落とし🪨」が非常に気になります🤔

〜以下、解説板より〜

黒駒合戦の激戦場

黒駒合戦は、今から約420年前、天正10年8月に、甲斐の支配をめぐって徳川家康と北条氏直が御坂峠から 新田一帯にかけて激しく戦闘を繰り広げました。
本能寺の変後、北条氏は若神子(北巨摩)、雁坂口(東山梨) 、御坂口の三手に分かれ甲州に進攻してきました。
黒駒への 侵入には峠に御坂城を築城し、拠点としました。
一方、徳川軍は上九一色から入り、勝山城(中道町)、小山城(八代町) を固め、大将・鳥居元忠は1,500余を率いて新田の山宮神社付近、撫台に陣を敷き、北条軍10,000余と対決しました。
苦戦を強いられた徳川軍は鉄砲の威力と、岩石落としの 作戦が功を奏し、勝利することができました。
北条軍の 死者は2,670人余で、その多くはこの付近や五輪塚と呼 ばれる場所に埋葬されたと伝えられます。
本町では埴原内匠助(成田)・武藤嘉左衛門(国衙)・小沢孫次右衛門(尾山) などの武田遺臣や地域住民は徳川方に加勢し、信玄の孫 である北条氏直には味方しなかったといわれています。
桧峰神社神主・武藤左衛門は徳川の案内役として、二宮神主・上野勝義は氏子を引き連れて御坂口の警備にあたり、 それぞれ戦闘に貢献したとして、武藤神主は土地を、上野神主は旱魃時の水利権を与えられました。

御坂町教育委員会

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