小川台城
小川台城([大崎城 周辺城郭])
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小川台城の口コミ情報
2026年08月14日 マグロ常陸介祐平
国分氏関連のお城とされているようですが、詳細は不明です。主郭には皇産霊神社が鎮座していますが、千葉氏系統のお城らしく、元々は妙見神社だったようです。軍記物の東国闘戦見聞私記によると栗林義長に攻められたとあるようです。
皇産霊神社の建つ、南西に伸びる舌状台地が城址となります。お城は2つの郭で構成されており、南側の鳥居(写真1枚目)から石段を登った先(写真2枚目)が2郭で、北側の一段高い郭が主郭となります(写真4枚目)。主郭の手前西側に小さな稲荷社があり、背後には竪堀が見られます(写真3枚目)。主郭の神社背後には立派な土塁(写真5枚目)がありますが、堀を伴わないもので、神社としての構造物と思われます。その先には堀切がありました(写真6枚目)。お城は小規模で、イメージ的には砦です。
上小川の地は、肥前鹿島藩ゆかりの地でもあります。佐賀藩の藩祖鍋島直茂の次男忠茂は、関ヶ原の合戦の際に兄勝茂が西軍に付くも父の命により西軍の立花宗茂を攻め、鍋島氏の存続に貢献します。戦後、家康への人質として江戸に赴き、秀忠の近習となり、矢作の地に5千石を賜っています。陣屋は神埼町岩崎(下総神崎駅前付近)に築かれたようです。忠茂の「忠」の字は秀忠の偏諱を賜ったものです。慶長13年には佐賀藩から肥前鹿島2万石を分知され2万5千石の大名になっています。忠茂は大阪冬の陣に病身を押して参戦し、その後は神崎の陣屋ではなく上小川で療養しますが、寛永元年にこの地で亡くなっています。肥前鹿島藩は、忠茂の子の正茂が継ぎますが、佐賀藩主で叔父の勝茂は自身の9男直朝を養子に押し付けられるのを拒否し本藩と義絶、鹿島2万石を本藩に取り上げられ、矢作5千石の旗本として存続しています。肥前鹿島藩は、直朝が別家を立てて引き継いでいます。元禄11年に5代目長行(佐賀藩2代目藩主光茂の子、なんだったんでしょうか)が三河に所領替えとなっています。上小川城の麓にある圓通寺には、この地で亡くなった忠茂から4代目直旨までの墓があります(写真7,8枚目)。
上小川城のある台地上には古墳もあり、遺跡としての時代区分は古墳・中世・近世となっていますが、1992年に発掘調査では、江戸時代のものは出土していないようで、鍋島氏は台地上の城跡は使用していないと思われます。忠茂が療養した屋敷は、現在集落になっている場所にあったものと思われます。









