米津出羽守屋敷
米津出羽守屋敷([師戸城 周辺城郭])
師戸城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「米津出羽守屋敷」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
米津出羽守屋敷の口コミ情報
2025年08月24日 マグロ常陸介祐平
後に久喜藩(久喜市)や長瀞藩(東根市)の藩主となる米津氏の陣屋です(2城とも登録のお城が藩庁)。初代米津勘兵衛田政は、三河国碧海郡米津を本拠とする三河譜代の武士で、家康の小姓として小牧・長久手の戦いや小田原の役で活躍し、家康の関東入国の際に、武蔵国都築・下総国印旛,相馬・上総国埴生,香取などで5000石を知行します。おそらくこの際に印旛郡の知行地支配の為に、陣屋を構えたと思われます。印旛歴史民俗資料館の方のお話では、当初は岩戸城跡に陣屋を構えたとの説もあるとの事でした。田政は、慶長9年に初代江戸北町奉行に就任し、亡くなるまで20年間勤めています。印旛の地が本拠という訳でもなさそうですので、この陣屋に実際に居住したのかは微妙な感じがします。田政の子の田盛は、小姓組番頭となり従五位下出羽守に叙任、昇進を重ねて、大阪定番になった際に摂津河内に1万石を加増され大名となっています。不思議なことに立藩した際の藩庁は不明で、大名としての藩名はわかっていません。定府大名であっても通常藩庁はあると思われます。田盛が開基した米津氏の菩提寺は、東久留米市の米津寺ですので、印旛の地ではないように思われます。田盛の子の政武が替地により久喜藩が成立しますが、印旛の地はその後も知行地だったようですので、陣屋がどのようになったのかは不明です。
歴史民俗資料館の方から、陣屋跡は岩戸岩不動の場所と教えていただきました。明確な遺構は見られませんが、台地の先端に位置しており、西側には背後の削平地も含め土塁状の土盛りも見られ、それらしさは感じられます。埋蔵文化財包蔵地もこの場所に網掛けしてありますが、遺跡のポイント(城マーク)は網掛けから外れた西に隣接している民家となっており、珍しいパターンになっています。今回見ていませんが、お城のサイトには、民家の場所を陣屋跡としてレポートするものもあり、不思議な感じがします。
近くには、国の重要文化財に指定されている泉福寺薬師堂があります。