弘法寺
弘法寺([国府台城 寺社・史跡])
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弘法寺の口コミ情報
2025年11月15日 マグロ常陸介祐平
弘法寺は、奈良時代に行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされ、平安時代に、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したとされます。その後、天台宗に改宗し、鎌倉時代になると日蓮の布教を受けて、時の住持の了性法印が法華経寺の富木常忍との問答の末にやぶれ、日蓮宗に改宗しています。常忍の子の日頂が初代の貫首となり、大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受けています。お寺は栄え、室町時代になると真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展しています。徳川家康の関東入国で、朱印地30石を与えられています。幕末の戊辰戦争の際は、東北方面へ逃れる幕府軍が弘法寺に一時逗留しており、手児奈霊堂付近にあった末寺の大林院では、土方歳三も軍議に加わったとされます。幕府軍が去ったあとは、弘法寺に官軍が陣を構えて市川・船橋戦争が始まっています。弘法寺は明治時代、火災のため諸堂は焼失するも再建され、現在に至ります(Wikipediaより要約)。
このように、大変歴史のあるお寺ですが、市河(市川)城の推定地でもあります。登録城である国府台城は、弘法寺から北に約1km程の距離にあり、サイトの説明では、「国府台城は、千葉県市川市国府台付近にあった日本の城。別名市河城・鴻之台城とも。ただし市河城(市川城)に関しては、国府台城東側の真間山(現在の市川市真間)上の弘法寺付近にあったともされ、別の城、あるいは存在時期からみて、元となった城とみる説もある。」と解説されています。康正元年(1455年)、享徳の乱により千葉実胤・自胤兄弟が、足利成氏方の原胤房に敗れて志摩城から逃れ、簗田持助により落城した市河城は、ここ弘法寺付近の可能性があるということです。
弘法寺は、台地の縁に位置しており、石段でも分かりますが(途中に涙石があるが雨天で確認できず)、南側はかなりの高低差があります。仁王門の東側の鐘楼のある高まりは東に伸びていて土塁のようにも感じられ、外側は帯郭状になっています。また、西側には弘法寺古墳が見張り台か土塁代わりのように存在します。城郭構造として見るには、無理があるように感じますが、陣としては使用可能かもしれません。国府台にしても弘法寺にしても、多古地区から逃れてすぐに築城するのは困難と思われ、以前から城があったか、寺社地を使用したと考えるのも自然のように思えてしまいます。もっとも、弘法寺を使用したとすると市河城とは言わず、「弘法寺の陣」とでも呼ばれても良さそうなので、なんとも言えない想像です。
余談ですが、弘法寺の墓地には、結城秀康の5男で姫路藩の藩主松平直基の立派なお墓があります。実際に埋葬されたのは神奈川県南足柄市にある曹洞宗の最乗寺で、藩主を務めた姫路の天台宗の圓教寺にもお墓があり不思議な感じがします。三基並ぶ墓石の中央が、秀康の側室で直基生母の品量院殿(三好三人衆三好長逸の子の長虎の娘)なので、生母の宗旨で弘法寺にお墓が建てられたのかもしれません。









