舟戸藩陣屋
舟戸藩陣屋([布施城 周辺城郭])
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舟戸藩陣屋の口コミ情報
2024年05月14日 マグロ常陸介祐平
本多正信の弟の本多正重が大坂の陣の恩賞として一万石でこの地を賜り陣屋を築いています。正重の死後、二千石を収公され、旗本に転落しますが、孫の正永が寺社奉行となり大名に復帰し、再度舟戸藩が立藩しています。さらに加増を受け沼田に移封されますが、その後駿河田中に移封した後も藤心(別に陣屋がある)を含めて舟戸の地はそのまま領有し続け、陣屋には代官が置かれていました。
訪れた当日は、何の疑いもなくGoogleマップに位置登録された高台が陣屋跡と思い、段状に削平され船戸村の由緒の石碑があるあたり(写真1,2枚目)をフムフムと見学しました。
自宅に帰って、舟戸陣屋をあらためて調べてみると、「流山史跡ガイドの会」のレボートを見て位置が違っていた事を確認しました。城は高台に築くものと思い込んでいましたが、周囲から見下ろせる谷間が該当地でした。案内板の古地図をみると明らかなのですが、固定概念はこわいですね。それにしても、どうして周囲から丸見えの防衛不適格な場所に陣屋を作ってしまったのでしょうか。家康の関東入部時の城郭的な旗本の陣屋と大坂の陣後に出された一国一城令後の陣屋の考え方の違いかもしれませんね。(間違えた言い訳を考えてみました、そういえば藤心陣屋も要害の地ではありません)
近くにある一本杉善哉庵には、代官の墓の説明板があり、代官が世襲制ではなかったことがわかります。説明板の脇にあるお墓自体は無縁塔で、大半の墓石が地元民と思われる女性や子供のものです。そのうちのいくつかが代官のものなのでしょうが、明確な武士階層と思われるものは見られません(写真6,7,8枚目)、むしろ不動堂の裏にある墓石(写真4枚目、全てが墓石ではない)がそれらしく感じられました。(任地先で亡くなる率はそう高くないと思われます)
つくばエクスプレスには柏たなか駅がありますが、この地を領有した駿河田中藩に因むものです。