平山城
平山城([生実城 周辺城郭])
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平山城の口コミ情報
2024年05月12日 国府参議城介
下総千葉氏が千葉氏嫡流になるために構えた城
【歴史】
築城年代は不明だが、寺崎城主である岩橋(千葉)輔胤がこの地に移り、孝胤(輔胤の嫡男で、千葉氏22代当主)又は勝胤(輔胤の孫で、千葉氏23代当主)が本佐倉城に移るまで、ここが本拠地として用いられていた。(資料によって、記載がまちまちなため、どちらが正しいのか不明ではあるが、本佐倉城に本拠地を移すまで、下総千葉氏の居城であったことは間違いないようです。)
輔胤や孝胤の頃には、平山に行くことを「平山に上る」と表現しており、後に本佐倉城に本拠を移すと「佐倉に上る」という表現になっています。輔胤が本来の本拠地である佐倉ではなく、この平山城を本拠として理由として、千葉氏の嫡流の継承を得るために、亥鼻城(千葉城)の近くに本拠地(その後、更に近くの長崎を拠点にしている)を移したようです。(その証拠として、千葉氏の守護神である千葉妙見社の再興に尽力している)
文明3年(1471)に、古河公方である足利成氏が上杉顕定によって、古河を追われると、千葉孝胤は成氏を平山城(ただし、本佐倉城若しくは小篠塚城に入ったという説もある)に迎え入れている。(房総動座)
また、この城から少し離れた所にある東光院は平忠常(千葉氏の先祖)が創建したと伝わっており、平山という土地は、千葉氏にとって所縁のある地でもあった。
別名:長谷部城
【遺構】
生実城の東方約4.2kmの台地(標高40m/比高20m)に築かれた城です。
現在は民家や畑などにより、遺構が寸断されており、本来の城郭の姿は分かりにくいが、土塁や虎口、曲輪などが点在している。北西部や妙見社の背後、東側には比較的大きな土塁が残っている。特に東側は明確な虎口や、土塁で区画した曲輪も確認できた。
【感想】
下総千葉氏が本佐倉城に移るまで、拠点とした城であり、遺構が点在していることから、かなり大規模な城郭であったことが伺えます。しかし、堀といった防御機構が見当たらないことから、政治的な拠点としての役割が高かった城であるように思われます。もしかすると、堀はあったのかもしれないですけど、開発の影響で消滅してしまったのかもしれません。そういう意味では、千葉氏の歴史を追いかけたいマニアな人向けのお城です(笑)
宅地や畑になっている箇所が多く、どこを通っていいのかかなり分かりにくいです。一応、国土地理院の地図で道になっている部分だけを使って探索しましたが、もし人がいれば声を掛けた方がいいかもしれません。自分が訪れた時は全く人に会いませんでしたが… そのため、妙見社付近は遠くから確認していません。
【アクセス】
鎌取駅から徒歩で約40分。
駐車するスペースはない。
【写真】
①遠景(南側から望む)
②北西部の土塁(敷地に入れないので望遠での撮影)
③虎口
④東側の土塁
⑤妙見社が残る曲輪
⑥宅地に残る土塁
⑦虎口へと繋がる坂道